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東京地方裁判所 昭和29年(ヨ)9026号 判決

債権者 アメリカン・サイアナミツド・コンパニー

債務者 明治製菓株式会社

主文

債権者が、保証として、金一億五千万円を供託することを条件として、次のとおり定める。

(一)  債務者は、神奈川県川崎市堀川町五百八十番地所在の債務者会社川崎工場において、現に保有するストレプトマイセス・サヤマエンシス、ストレプトマイセス・ムラヤマエンシス又はS・三一〇号と称する菌を水性培養基に接種し、好気性醗酵を行わせることにより、抗菌性物質クロルテトラサイクリン(商品名「サイクリン明治」又は「クロルテトラサイクリン明治」)を製造し、又はこれを販売、拡布してはならない。

(二)  右物件の製品(仕掛品、半製品を除く。)に対する債務者の占有を解いて、債権者の委任する右物件所在地を管轄する地方裁判所執行吏に、その保管を命ずる。

訴訟費用は、債務者の負担とする。

事実

当事者の主張

第一債権者の申立及びその理由

(申立)

債権者訴訟代理人は、主文第一項(ただし、保証の点を除く。)と同趣旨の判決を求め、その理由として、次のとおり陳述した。すなわち、

(理由)

一、本件発明の概要

米国における第一流の生物学者ベンジヤミン・ミンジ・ダガー博士は、チヤールス・パイダツクス、エドワード・エバレツト・スタバード及びジヨセフ・ジヨーヂ・ニーダコーンとともに、長期にわたる研究と実験の結果、ある種の微生物を培養することにより生ずる代謝産物〔注(1) 〕クロルテトラサイクリン(商標名オーレオマイシン)が、ペニシリン等と異り、グラム陽性菌〔注(2) 〕に対してのみならず、グラム陰性菌に対しても、有効な抗生的結果をもたらすこと及びこれを薬剤として使用する場合、経投与が可能であることを発見確定した。

そして、同博士等は、この抗菌性物質を工業的に製造する方法として、ある菌種に属する菌株(同博士は、この菌種をストレプトマイセス・オーレオフアシエンスと命名した。黄色を呈するストレプトマイセスの意味であり、この名称は、今日学界に広く認められている。)を水性培養基に接種した後、好気性醗酵〔注(3) 〕を行わせることを発明した。発明者である同博士等は、一九四八年(昭和二十三年)二月十一日、この発明について、米国特許局に特許を出願し、その後、この権利を債権者に譲渡した。

債権者は、昭和二十四年二月七日、万国工業所有権保護同盟条約上の優先権を主張して、日本特許庁に特許を出願した。したがつて、日本においても、前記出願と同じく、昭和二十三年二月十一日に出願があつたものとみなされるのであつて、日本における特許出願については、審査、公告等の手続を経たうえ、昭和二十九年十月五日、特許番号第二〇八、四三八号をもつて登録された。なお、米国においては、すでに、一九四九年(昭和二十四年)九月十三日、米国特許第二、四八二、〇五五号をもつて特許されている。

注(1)  代謝産物 METABOLIC PRODUCT

生産は、無生物をとり入れて自己の生体を構成し、自己の生体内から老廃物を排出する。この排出物を代謝産物という。

注(2)  グラム陽性、グラム陰性

デンマークの細菌学者ハンス・グラムの創始した細菌染色法により濃紫色に染まる性質をグラム陽性といい、赤色に染まる性質をグラム陰性という。

グラム陽性菌の主なものは、結核菌、癩菌、ジフテリア菌、肺炎双球菌、連鎖状球菌、葡萄状球菌等、グラム陰性菌の主なものは、大腸菌、チフス菌、赤痢菌、ペスト菌、コレラ菌、淋菌等。

注(3)  好気性醗酵

遊離酸素が存在するとき進行する醗酵をいう。これに反し、遊離酸素の存在しない条件で進行する醗酵を嫌気性醗酵という。

好気性醗酵を促進するためには、通気可能の容器を用いる。ことに、これを振とうし、又は器中に空気を吹きこむことがある。

二、本件特許の要旨

本件特許請求の範囲は、その特許明細書(甲第一号証)の記載によれば、

「水性培養基にストレプトマイセス・オーレオフアシエンスに属する菌株を接種し、好気性醗酵を行わしめることを特徴とする抗菌性物質クロルテトラサイクリンの製造方法」である。

しかして、更に、右明細書の「発明の詳細なる説明」にもとずいて、その要点を摘記すれば、次のとおりである。

(一) 培養の目的である菌について

培養の目的である菌は、バクテリアとカビとの中間の地位にあつて、ウルトラ・モールドとも呼ばれるS・オーレオフアシエンス種(S・はストレプトマイセスの略記号。以下同様とする。)に属する菌である。これに属する菌株のうち、最初に発見されたものとして右明細書に例示されたA-三七七は、初め米国ミズリー州の「おおあわがえり」(牧草の名 TIMOTHY)畠の土壤中から分離したのであつたが、その後、米国内の二十八の州、英国、ブラジル、日本、中国、印度及びアフリカの土壤からも発見された。

この菌は、典型的な好気性菌で、空気を通じない深部培養ではよく成長しない。アスパラギン肉エキス葡萄糖寒天(以下AMD寒天という。)で培養されるが、この培養中の分離したコロニー(集団)においては、菌体から有枝菌糸を生じ、速かに網目状となり濃厚なボタン状のコロニーを形成する。菌糸の先端は、一般に可撓性で相連続する。この菌を培養したAMD寒天は、この菌の発育に従つて、僅かに着色するに過ぎない。この菌は、AMD寒天では、絶えず繁殖し、最初は白く、進行すると黒褐色の極めて豊富な胞子をつけた気菌糸をもつようになる(七日から十日)。胞子は菌糸から分離し、培養物上に落ちて菌体を発生し、この菌体から有枝菌糸を発育して、これに又胞子を作るというように循環する。その間に生ずる代謝産物が、クロルテトラサイクリンである。

(二) 製造の目的物であるクロルテトラサイクリン(オーレオマイシン)の性質について

S・オーレオフアシエンス菌の培養によつて得られる抗菌性物質クロルテトラサイクリンは、前述のように、グラム陽性のみならず、グラム陰性の多種類の菌に対しても有効であり、又バイラス〔注(4) 〕及びリケチア〔注(5) 〕にも効果がある。

しかして、右の新規で有用な物質クロルテトラサイクリンの化学的構造は、一九五二年十月五日発行の「アメリカ化学協会雑誌」四九七六頁(甲第四号証)に発表されたが、その構造式は、別紙〈省略〉(い)記載のとおりである。

注(4)  バイラスVIRUS瀘過性病源体

これによつて起る病気は、天然痘、インフルエンザ、黄熱、日本脳炎、小児麻痺、豚コレラ、狂犬病等

注(5)  リケチアRICKETTSIAバイラスと細菌の中間に位する微生物

これによつて起る病気は、発疹チフス、つつが虫病等

(三) 菌を培養基に接種し、醗酵させて、クロルテトラサイクリンを製造する方法について

本件特許明細書中においては、前述の「特許請求の範囲」の「附記」として、五項目にわたり、本発明実施の態様を摘記し、「発明の詳細なる説明」において、これを更に詳説しているが、これによれば、「本発明によりクロルテトラサイクリンを製造するには、次に述べる時間、温度、PH〔注(6) 〕等の条件の下に、適当な培養基中において、適当な深部タンク培養法を使用して、S・オーレオフアシエンスの好気性培養を行う。」(ただし、これは明細書にもいうように、限定的のものではなく、必要に応じて変更し得るものである。)

しかして、培養方法自体は、ペニシリンやストレプトマイシンの製造の場合と同じく、公知又は当業者の容易に推測し得る一般的方法を含むものであり、結局、本件特許の要部は、S・オーレオフアシエンスに属する菌株を用いて、新規で有用な物質クロルテトラサイクリンを製造する点にあり、培養法自体に新規な発明の存在を要求されたものではない。このことは、その培養基についても同様である。

(培養基について)

「培養基は、抗菌性物質を製造するために、他の菌類を培養する場合普通に使用されるように、炭素源として可溶性炭水化物のようなもの、有機又は無機の窒素源、燐酸塩のような鉱物塩及び他の培養成分中に夾雑物として普通に見出される種々の金属の痕跡(極微少量)を含有する」ものである。すなわち、「炭素源」としては、普通は、澱粉、いわゆる可溶性澱粉類、蔗糖、葡萄糖、麦芽糖、果糖その他の糖類及び糖アルコール類のような水溶性、ことに水に易溶性の炭水化物「窒素源」としては、アミノ酸及びカゼイン並びに魚肉、大豆蛋白、肉エキス、肝臓その他の植物性又は動物性の窒素含有物(加水分解されたもの及びされないもの)のように、広範囲にわたる種々な物質並びに尿素、硝酸、アンモニウム化合物のような化学薬品、ことに、化学的促進物質として、コーン・ステイープ・リカー、「無機塩」としては、燐酸塩のような無機塩類を含有する液体培養基を使用する。

以上のほか、少量希望される元素は、カリウム、カルシウム、硫黄、鉄及び痕跡(極微少量)のある種の元素である。

(PHについて)

PHは、なるべく酸性側がよく醗酵の最初にはPH6から7が適当である。

そのために、もし必要ならば、燐酸塩のような緩衝剤を用いて培養基のPHを調節する。

(温度と時間について)

醗酵工程における適当な温度は、摂氏約二十六度から二十八度であるが、二十度のような低温度、三十五度のような高温度も使用できる。高収率は、温度と空気の圧力との最適条件における三十時間から四十時間の醗酵によつて得られる。

(採取 RECOVERについて)

以上の方法によつて醗酵物中に製造されているクロルテトラサイクリンは、種々な方法によつて採取される。例えば、醗酵醪を酸性として濾過し、二価の金属イオンの存在又は非存在の下に、アルカリ性として沈澱させて採取される。ただし、本特許は、採取の方法如何にかかわらず、採取されるべき物質たるクロルテトラサイクリンを、ある種の菌培養醗酵により製造する点にあるものである。

注(6)  PHは水素指数(HYDROGEN EXPONENT)の略語である。水素イオン濃度をあらわす値であつて、PHの値の7より小さい溶液は酸性であり、7より大きいものはアルカリ性である。

三 「S・オーレオフアシエンスに属する菌株」について

(一)  S・オーレフアシエンス種の決定基準について

S・オーレオフアシエンス菌の標準的のものは、次の数個の性質をそなえており、この性質のうち、重要なもの又は多くのものを共通して具備するものが、S・オーレオフアシエンスである。

(イ) まず、その生物がストレプトマイセス属〔注(7) 〕であること。すなわち、好気性、非病原菌であつて、気菌糸(AERIAL MYCELIUM)を生じ、胞子により増殖すること。

(ロ) コロニー(又はその群体)形成のある時期において、浸潤基生菌糸(SUBSTRATE MYCELIUM)中に黄色糸の色素を生ずること。

(ハ) 代謝産物たる抗菌性物質クロルテトラサイクリンを生産すること。(このものも、かすかに黄色である。)

(ニ) 菌は、本来土壤中から分離され、AMD寒天、馬鈴薯デキストロース寒天その他の培養基、とくに、馬鈴薯切片によく生育すること。

(ホ) 寒天上の若いコロニーに生じた基生菌糸(サブストレイト)は、当初は、ほとんど透明、普通二、三日中に黄変し、気菌糸(又は乾菌糸)は、初め白色(すなわち無色)、同様に初めに形成された胞子も白色、ただし、胞子のはなはだしく密生した寒天の表面は、漸次灰褐色から暗褐色に変化する(摂氏二十八度で五日から七日間)。これと同時に基生菌糸の大部分の色彩は消失する。培地の裏側は焦黄色、後に朽葉色となる。培養を継続する場合又は冷却する場合には、菌糸の色はすみやかに鈍くなること。

(ヘ) 顕微鏡で見るときは菌糸(ハイフエ)は真菌類の菌糸の観を呈する。気菌糸は、ある種の菌の特質であるように、胞子の連鎖として分裂すること。

〔右のうち、(イ)はワクスマン〔注(8) 〕九頁(甲第十一号証の二)、(ロ)から(ヘ)は、アンナールス・オブ・ザ・ニユーヨーク・アカデミー・オブ・サイエンス(以下サイエンス誌と略記する。)(一九四八年)一七九頁ダガー博士の記述(甲第十号証)による。〕

しかし、以上のことは、同一菌であつても、培養基の組成、温度、光線の相違によつて変化し、また、菌の変種〔注(9) 〕の場合には、右の特質のあるものを失い、別の性質を附加することがある。

(S・オーレオフアシエンス種のみならず、一般にストレプトマイセス属において、種の同一性を判定する唯一の標準のない理由は、その繁殖が無性生殖(ASEXUAL)で行われるため、遺伝法則により得ないためであるといわれている。)

注(7)  一方において嫌気性のアクチノマイセテス(放線菌)から、他方において胞子を形成しない型及び単胞子型のアクチノマイセテスから区別するため、ストレプトマイセスという名称が生れた。

注(8)  ここにワクスマンというのは、WAKSMAN THE ACTNOMICETES.一九五〇年版

注(9)  変種(その分類学上の意味)

S・オーレオフアシエンスという字句のうち、S・すなわち、ストレプトマイセスとは、その微生物が属する「属」(分類学上の限定語)を示し、オーレオフアシエンスとは、「属」を細分した多くの「種」(同上)のうちの特定の一を意味するのである。すなわち、ストレプトマイセス属中のオーレオフアシエンス種の意味である。分類学上「種」は、更に多くの「変種」を含むものであるから、「種」を限定すれば、「種」の下の「変種」はすべてこれに包含される。

(二)  S・オーレオフアシエンスの自然並びに人工変異性について

債務者は、「本件特許明細書にA-三七七の性質として表示したものを、そのまま具備するものでなければ、本件特許にいわゆるS・オーレオフアシエンスではない。」と反論するが、これは、細菌学者、ことに、放線菌学者間の定説を無視した謬論である。一般に、放線菌、ことに、ストレプトマイセス属の菌種は、自然的に変異(バリエイシヨン)し、又容易に人工的に変異を起すものである。

前述のワクスマン六九頁以下(甲第十一号証の三)にも「放線菌は、とくに、その培養上の特徴では、培地の組成及び繁殖の条件によつて非常に影響を受ける。培養の差によつて起る変異のために、しばしば、放線菌では、一定の型又は「種」の存在について疑問を起させた場合があつた。」と述べている。このように、培養中に同一菌が変異したため、その形態学上の相違、生物化学上の較差が生ずるのであるが、変異菌自体は、同種たるを失うものではない。すなわち、原菌の性状として記載された事項全部をそのまま保持したものでなければ原菌の種に属しないというようなことは公認の細菌学説の定説に反するものである。

放線菌の世界においては、唯一の尺度をもつて種(SPECIES)を同定(IDENTIFY)することはできない。前記ワクスマン一七頁(甲第十一号証の四)は、「放線菌の同定」の方法として(1) 生態学的方法、(2) 形態学的方法(3) 培養上の特徴、(4) 生物化学的特徴を併用すべきことを説いている。故に例えば、形態学的には相当変化しても生物化学的又は培養上の特徴において同一を保つならば、やはり、これを同一種とみなければならぬ場合を生じ培養上の特徴は相当変化しても、形態学的、生態学的に見て同一ならば、これを同一種とみなければならぬ場合も極めて多い。本件についていえば、発明者が特許出願当時(一九四八年)この菌種のうちの一株たるA-三七七につき記述したところと、すべての点において同一でなければS・オーレオフアシエンスでないというのは誤りである。

ワクスマン六九頁から七一頁(甲第十一号の三)に、「可溶性色素はこれを失つたり、又色が違つてくる。又気菌糸の色が変り、気菌糸を形成する性質さえも失うことがある。聚落(コロニー)の大きさ、形、色、菌糸の長さ、量、胞子形成の様子が培養期間、培地組成いかんによつて変る。ある種栄養源利用能力の減退、抗菌性物質生産能力の消失、色素生産の変化(性質、量等)が菌の変異としてみられる。」と記載され、更に又ワクスマン及びルシユバリエ共著「アクチノマイセテス及びその抗菌性物質」(一九五三年)〔以下ワクスマン(一九五三年)という。〕二〇頁から二一頁(甲第十二号証の三)においても、同一種に属する菌が、しばしば著しい変異をすること、そして、その変異は、観察者によつては、ある株が異つた種とされる程著しい場合が、しばしばあることが記載されている。しかして、この一般的なストレプトマイセス属の菌の変異が、S・オーレオフアシエンスにおいても、正しくあてはまることは、本件特許明細書八頁左欄二十二行から二十五行に「菌株は必ずしも本来の性質に止まるものではなく、固有の変化により、時とともに性質が変ることがあることに注意すべきである。」と記載されており、更にその変異の詳細が、バツカス、ダガー、キヤンベル等によつて行われた実験報告として、サイエンス誌(一九五四年)八六頁、九〇頁、九一頁(甲第十三号証の二及び三)に記載されていることによつて明らかである。

なお、親株から生れた子孫の菌株が、いかに変異した性状を示しても、常に親株の種に属せしめられることは、国際的な約束である。すなわち、国際細菌命名規約(和訳文草案)一〇八頁(甲第十八号証)には「ヴアリアント(変異種)は親の培養から性質に変異を表わした生物である。往々変異はミユータント(突然変異)でできる。もし判然と区別できて、その性質が固定しておれば、変異は亜種又は変種とみなし名づけてもよい。」とされ、したがつて、多少の変異あるいは不安定な変異を示すにすぎぬ変異株は、変種にもならず、同じ菌株というべきものである。

四、本件特許の権利範囲について

本件特許の要部は、前掲のとおり、S・オーレオフアシエンスに属する菌株を使用して、クロルテトラサイクリンを製造する点にあり、特許権の範囲は、特許請求範囲に示されるとおりである。本件特許明細書(甲第一号証)は、極めて親切、かつ、具体的に記載されている。そのA-三七七というのは、S・オーレオフアシエンス種のうちの一菌株である。発明者は、右特定のA-三七七菌を捕え、これを基準として、その時までに検索して得た結果を忠実に記載したものであり、これはあくまで、S・オーレオフアシエンスに属する一菌株につき、その時までに知られた特性を示すにすぎない。他の性状が後日発見されても菌種自体は同一である。この菌が約一週間前後で次々と世代を新しくするということを考え、前項において詳述したその変異性についても考えるならば、明細書の記載以外の性状がその後に発見されたとて、それがS・オーレオフアシエンスに属しないということにはならない。特許請求範囲にいうS・オーレフアシエンスとは、菌学上の「種」を指すものであるから、本件特許請求範囲は、S・オーレオフアシエンス種に属する菌株をすべて包摂することは極めて明白である。

本件特許明細書の本文において、S・オーレオフアシエンスの性質に関する記載に不備があり、同種に属する地上無数の自然変異株についての記載がなくとも、又培養による変異種が新たに発生しても、それが菌学上同種に属すると認められる限り、その菌株が本件特許請求の範囲外に逸脱することはあり得ない。発明思想に属する実施例、具体例を全部明細書に記載することは、本件特許に限らず、不可能なことであり、又その必要もないことである。

本件特許は、生物、ことに、数日中に世代のかわる菌をその要部とするものであるから、明細書記載の性質とは変つた性質の菌株が生ずることは、特許明細書自体の予想するところであり、明細書記載の特定一菌株の性質に限定することは、事物の性質と相いれない。菌培養及び自然界における菌の探究によつてこの菌株が本来もつていた性質が後に発見された場合はもちろん、菌学的に種の内容が豊富になり、特許明細書本文に記載された性質以外に他の性質も加わり、又変種が多数に発生したとしても、それは特許の権利範囲の拡大ではなくして、当初から存する請求範囲の枠内での充実である。本件特許が、特許明細書本文に記載されているS・オーレオフアシエンスの性質に与えられたものではなく、生物であるS・オーレオフアシエンス種を要部の一つとして与えられたものであることを理解すれば、債務者の主張するような「明細書に性質として表示されたものを、そのまま具備するのでなければ、本件特許にいわゆるS・オーレオフアシエンスではない」という議論は誤りであることは、明瞭であろう。

又右に述べた内容をもつ「種」という本件発明思想上の概念は、放線菌分類学上の概念であるが、特許法上は、更に均等物がその権利範囲に含まれるものであるから、「種に属する菌株」が、特許出願後に顕在化されたS・オーレオフアシエンス種に属する菌株をすべて包摂することは明白である。

五、特許権の侵害

債権者は、以上の特許権の下にクロルテトラサイクリン(オーレマイシン)を製造し、日本においては、特許出願の効果を生じた昭和二十三年二月以後、日本法人「日本レダリー株式会社」(以下「日本レダリー」という。)に実施権を与えて、これを日本国内で製造販売させている。実施権者である日本レダリーは、国内の需要をみたしてなお余りある十二分の生産設備を有している。

しかるに、債務者は、債権者の特許出願の効果を生じた日から遙か後である昭和二十八年頃から、「クロルトラサイクリン明治」あるいは「サイクリン明治」との名称をつけた薬品を製造販売するに至つた。しかして、債務者は、右薬品を神奈川県川崎市堀川町五百八十番地所在の債務者工場においてある方法を用いて製造しつつある。その方法、とくに、その根底をなす使用菌が何ものであるかは、未だ公にされていないが、右製品の中に封入された説明書に、その製品の構造式としてみずから記すところのものは、債権者の製造するクロルテトラサイクリン(オーレオマイシン)の構造式として前述の「アメリカ化学協会雑誌」に掲載された別紙(い)に示すものと全く異るところがない。

(一)  特許法上の推定

はたしてしからば、本件の場合においては、特許法第三十五条第二項にいう「新規ナル同一ノ物ハ同一ノ方法ニ依リテ製作シタルモノト推定ス」との法則の適用を受け、債務者は、債権者と同一方法、すなわち、その特許を有する方法と同一方法を実施するものとの法律上の推定を受けるものである。

(二)  方法の同一性を推測すべき積極的事実

(イ) クロルテトラサイクリンを生産する菌株は、S・オーレオフアシエンス種以外には知られていないし、培養方法も債権者の特許の方法以外には知られていない。債務者は、ストレプトマイセス・サヤマエンシスなる菌の存在を主張するが、この菌については学界雑誌その他に全く記載なく。このような名称自体も、国際細菌命名規約規則第十一により否定されるべきものである。すなわち、同規則第十一は、「印刷物として一般公衆に対し又は細菌学研究所あてに販売又は配布することによつて、公表は、この規約の下に有効となる。他の方法での公表は、有効公表として承認されない。公会席上新名を報告し、又はコレクシヨン中に新名を置いても、有効公表とはならない。」明記している。したがつて、クロルテトラサイクリンを生産するS・オーレオフアシエンス種以外の種は、全く国際的学界に認められていないのである。

(ロ) 債権者は、クロルテトラサイクリン製造の特許を出願する際、すでに自己の菌株、すなわち、S・オーレオフアシエンス種の菌株を公共機関たるN・R・R・L・(米国ノーザンリジヨナル・リサーチ・ラブラトリー・米国国立菌保存機関に送付し、全世界の学者の自由な研究に委ねており、債務者もこれを入手しているのである。これに対し、債務者は、自己の菌株(S・サヤマエンシス・SムラヤマエンシスあるいはS・三一〇号菌)を学者の自由な研究に委ねないのみでなく、鑑定のためワクスマン博士あるいはN・R・R・L・に送ることも拒否している。しかも、債務者は、みずから特許を出願しながら、その菌株を秘匿しているのであり、このことは、特許の附与が、技術の公開に対する反対給付的考えに立つていることに徴して、はなはだしく不当である。

(ハ) 債務者は、自己の菌株についての研究を刊行物によつて発表することさえ、これを避けるため、一旦農芸化学会誌に投稿したS・サヤマエンシスに関する原稿(乙第十三号証)を取り戻して発表せず、もつて、S・オーレオフアシエンスの記載上の比較をも全く不可能にした。したがつて、S・サヤマエンシス株に関する学会雑誌上の報告は、現在においても全く存在しないのである。

六、放線菌の分類について

元来、この種の菌の分類法システム(キイ、尺度)については学界にもまだ定説がないが、現在、この種の菌の分類法中最も著名なものは、債務者も援用するクラシルニコフ氏法、ワクスマン・ヘンリシー法である。その分類法システムの相違の生ずる理由は、ある人は形態に重きを置き、ある人は培養に重きを置き、他の人は生態、ことに、色素分泌を優先視するがためである。学問上の論議の定まるのは後日をまたなければならないが、われわれは今、菌のもつ代謝物生成能力について深い関係を有するのであり、この点を全然考慮しない観点に立つ分類学説を本件において援用することは、事件を迷路に導くのみである。

債務者は、自己の菌をもつて、S・フラボヴイレンスに近似するという(債務者の明細書、乙第二号証)。しかし、債務者の菌がS・フラボヴイレンスそのものであるというのでもない。しからば、S・フラボヴイレンスとはいかなる菌であるかというに、債務者が主張するワクスマン・ヘンリシーの分類によれば、S・フラボヴイレンスはS・オーレオフアシエンスと近似なものであり、同一群(グループ)中のものであるとされている。そうすると、債務者の菌(S・サヤマエンシス)は、ある程度まで、S・オーレオフアシエンスに似ており、少くとも同一群(グループ)に属すると見なければならない。ひるがえつて、両菌の差は、どこにあるか。その大きい差異は、S・オーレオフアシエンスはクロルテトラサイクリンを生成するに対し、S・フラボヴイレンスはかびに対して有効であることだけである。すなわち、債務者のS・フラボヴイレンス近似菌であるS・サヤマエンシスは、一方においては、クロルテトラサイクリンを生ずる点において、S・フラボヴイレンスと異り、かえつて、S・オーレオフアシエンスと同一である。これを学界に提出すれば、債務者のいうところのS・サヤマエンシスはS・オーレオフアシエンスの一変種と認められることは、明らかである。

七、記載によるS・オーレオフアシエンスとS・サヤマエンシスとの比較

債務者がみずから有すると主張する唯一の菌株、すなわち、S三一〇又はS・サヤマエンシスと称する菌株が、仮に存在し、かつ、債務者がそのような菌株を使用しているものとしても、その菌株は、結局、S・オーレオフアシエンス種以外のものでないことを、その記載について明らかにする。

(一)  菌の異同を論ずる方法について

元来、菌の異同を論ずるためには、

(A) 比較する菌株の性状を明確に表示すること

(B) 性状の差異のうち、菌株の種の決定に必要なものを選択確定することが必要である。しかして、菌のような生物については、その性状(前記(A))に新しい要素を次々と加えて行くことは、何ら困難なことではない。これは、人間の性状(外観、性格、嗜好、知能等)を文章で表現する場合を考えれば明らかである。菌の性状の描写のようなことは、人の主観により自由に、あたかも別のもののようにいうこともできるから、種を区別するための特徴となる菌の性状(前記(B))を、ある時はA、Bなりといい、ある時はA、B、C、Dなりというならば、全く比較することができなくなるのである。最も信用するに足りると思われる債務者の特許出願明細書(乙第二号証)には、S・三一〇と称する菌株(右明細書においては、S・フラボヴイレンスに近似の一種と表示していることは前述のとおり。)についての性状及びこれがS・オーレオフアシエンスと異なるものと債務者自身が判断した特徴となる性状の記載がある。(債務者は、後者を「特性」とよんでいる。債務者がこの特許を出願したときは、すでに、S・オーレオフアシエンス種のある株の性質は、文献記載により、公知であり、前述のように、債務者自身もS・オーレオフアシエンス株を入手していたのであるから債務者としては、十分比較検討のうえ、この明細書の記載ができたものと推測される。)。又、この記載のほかに、債務者が農芸化学会誌に投稿後取り下げた原稿(乙第十三号証の一から四、以下原稿という。)における記載がある。

しかるに債務者は、本件において、S・三一〇(S・サヤマエンシス)の性状(前記(A))を多少ずつ変えて記述し、もつてS・サヤマエンシスが、S・オーレオフアシエンスに属しないと主張している。このことは、一々例を挙げるまでもなく、気菌糸や胞子の形状、リトマス牛乳、馬鈴薯上の所見等について、債務者の明細書及び原稿(又は乙第二十一号証中の比較表)の記載と、別紙第二特性比較表の第一表から第五表におけるそれぞれの項目の記載とを比較対照すれば明らかである。又S・サヤマエンシスとS・オーレオフアシエンスと比較して区別するために価値ありとして債務者がみずから選定した性状(前記(B)に該当するもので、債務者のいわゆる「特性」)についてみても、明細書及び原稿の記載と第一表から第五表とは全く異り、その全部に共通なものは、僅かに肉汁寒天におけるそれのみである。

又債務者は、本件特許明細書中の例示菌株A-三七七の性状をもつて、S・オーレオフアシエンスの性状であるとするが、時として(自己に有利な場合には、)右明細書以外の記載をも援用する。例えば、

(イ) S・オーレオフアシエンスの気菌糸のスパイラル(ラセン体)については、本件特許明細書中、S・オーレオフアシエンスにはもちろん、例示菌A-三七七株にも「スパイラルあり」という記載は全然存しないし、ワクスマン(一九五三年)四九頁(甲第十二号証の四)S・オーレオフアシエンスの五項目の性状のうちにも、このような記載はない。ただ一つ、サイエンス誌(一九四八年)中にスパイラルを示す写真があるにすぎない。しかも、債務者は、S・オーレオフアシエンスにおいてはスパイラルあり、S・サヤマエンシスにはスパイルなしとして、その性状を比較しようとする。

(ロ) 債務者は、第三表等において、S・オーレオフアシエンスが肉汁寒天上で黄金色の色素を出すに対して、S・サヤマエンシスは色素を出さぬとして、これを種の異同判定の重要な根拠として主張する。しかしながら、本件特許明細書には、S・オーレオフアシエンスが黄金色色素を出すという記載は全くない。サイエンス誌一九四八年版(甲第十号証)、同一九五四年版(甲第十三号証)にもない。ただ、ワクスマン(一九五三年)四九頁(甲第十二号証の四)に、そのような記載があるだけである。しかも、このワクスマン(一九五三年)は、本件特許出願の年(一九四八年)より五年後の刊行物である。債務者は、一方において、特許出願以後の研究発表は新しい性質の附加であるから、許されないと主張しながら、菌の性状については特許出願の日以後の文献を引用し、性状を附加している。

(ハ) 馬鈴薯上の所見について、債務者は、ワクスマン(一九五三年)四九頁(甲第十二号証の四)を引用し、S・オーレオフアシエンスは黄金色可溶性色素を出すに対し、S・サヤマエンシスは淡赤褐色色素を出すことをもつて、種の区分ができると主張するが、馬鈴薯上の可溶性色素は、本件特許明細書に全く記載のないことである。しかも、債務者は、債権者が右ワクスマン(一九五三年)より一年後のサイエンス誌(一九五四年)九一頁(甲第十三号証の三)の記載を引用して馬鈴薯上の性質については両者は同一であることを明らかにするや(後記「第三表について」の(ニ))、右サイエンス誌は特許出願後の発表であるから援用すべきでないという。しからば、前記ワクスマン(一九五三年)の引用も同様に許さるべきではあるまい。

(ニ) 債務者は、債権者の主張するS・オーレオフアシエンスの六つの性質についてのサイエンス誌(一九四八年)一七九頁(甲第十号証)の記載を裏づけるサイエンス誌(一九五四年)(甲第十三号証)の多くの記載、すなわち、ジヨージア大学のP・R・バークホルダー博士他一名、パーク・デビス・コンパニーのJ・エールリツヒ他一名、N・R・R・L・のC・W・ヘツセルタイン、R・G・ベネデイクト及びT・G・ブリードハムの諸博士あるいは債権者会社のバツカス、ダガー及びキヤンベルの諸博士によつてされた各種の実験報告をも不当であるという。債務者は一体どの記載を、あるいは誰を信頼するのであろうか。

(二)  ベネデイクト株について

債務者がベネデイクト菌と称してS・オーレオフアシエンスと並べて原稿(乙第十三号証の四)にその性状を記載している菌株は、実はダガー博士自身がN・R・R・L・に寄託したS・オーレオフアシエンスの一株(すなわち、本件特許明細書記載のA-三七七)であり、N・R・R・L・二二〇九と称されるものである。このことは、本件米国特許第二、四八二、〇五五号明細書(甲第二十号証)三欄末尾に明記してあり、この菌株は、サイエンス誌(一九五四年)一四九頁(甲第十三号証の八)のヘツセルタインの実験の部に二二〇九として掲げられているものである。

この菌株は、N・R・R・L・のベネデイクト博士から予防医学研究所の梅沢浜夫博士に贈られ、梅沢博士から債務者に分与されたものであるが、その性状として原稿(乙第十三号証の四)に記載されたところを見ると、S・オーレオフアシエンス(ダガー)とは著しく異り、別種の菌のようにも見えるのである。むしろ、ダガー株とベネデイクト株との性状の差異の方がS・サヤマエンシス(S・三一〇)とダガー株の性状の差異よりも著しい。このことは、培養の方法、観察者の記述の仕方によつて、性状の表示が異ることの好例であるが、S・サヤマエンシスの性状の記載をこのベネデイクト株の記載と比較対照すると、両者は非常に近似し、表現の差を考慮すれば、むしろ同一の菌株と見られるのである。

(三)  債務者の「特性」比較表について

(1)  第一表、第二表及び第五表について

(イ) 形態

基生菌糸の生育については、両者は比較対照されていないので、相違が指摘されていない。しかし、S・サヤマエンシスの菌糸の分枝が少く、スパイラルのない点については、ダガー博士がサイエンス誌(一九五四年)一〇一頁写真(甲第十三号証の四)において、S・オーレオフアシエンスの胞子形成糸が種々の形を示すことを明らかにしているし、更に同書一一七頁第十二表(甲第十三号証の六)によつて同一種(S・アルブス)に属する菌がスパイラルを有し、あるいは有しないことが明らかにされている。

胞子の形については、S・オーレオフアシエンスは、球形ないし卵形であり、S・サヤマエンシスは短桿状とあるが、放射状菌の胞子の形は種によつて一定しているものではなく、卵形(オーバル)及び短桿(ロツド)は往々にして同一種中に存在している。例えば、パージーのマニユアル・オブ・デイターミナチブ・バクテリオロジー九三五頁から九三六頁及び九四〇頁から九四一頁の放射状菌の記載(甲第四十三号証)中S・コエリコロールでは、胞子は卵形又は短桿、S・フラボヴイレンスでは、胞子は球形卵形又は短桿状とされている。更に、前記サイエンス誌一四四頁のテーブル三(甲第十三号証の七)におけるヘツセルタイン等の研究によるS・ビリドクロモゲネスは、同一株でも、培地の種類によつて、球状より円筒状になる場合球状より卵形になる場合がある。

なお、債務者は、胞子の形で種をわけた例として、S・アルブス及びS・ロンギスポルスを挙げているがこの両者は、胞子の形のみで種の区分をされたものでないことは、ワクスマン(一九五三年)の三八頁S・アルブスの項と三九頁S・ロンギスポルスの項(甲第四十二号証)に債務者のいう「特性」が多数記載されていることを見れば明らかであり、仮に、胞子の形に重点をおいて種の区別が考えられたとしても、S・ロンギスポルスの項には、とくにリマークなる項があり、ここには「胞子が絶対に球形とならぬ点でS・アルブスと識別される」と記載されているのであるこのように、とくに胞子についての十分な研究の結果、初めて、ここまで強く主張できる特異な例を、胞子の形が変化するS・オーレオフアシエンスとS・サヤマエンシスとの関係に持ちこんで論じても、意味はないのである。

すなわち、胞子の形状の差は、本件において種の異同を判定する標準とはならない。

(ロ) コーン・スチープ・リカー寒天培地

コーン・スチープ・リカー寒天培養地上での胞子着生の良否は、放線菌の両菌種を区分する標準となり得ないものであり、このことは放線菌の研究者にとつて常識である。すなわち、放線菌では、一般に気菌糸形成の程度の差及び有無は、変異によつて異るものであり、このことはワクスマン(一九五〇年)七一頁(甲第十一号証の三)九行から十一行にも記載されている。

(ハ) ウシンスキー氏アスパラギン寒天培地

後に第四表に関して述べるとおり、これと培養基の組成は異にするが、同様の合成培地であるアスパラギン肉エキスグリセロール寒天培地の天然色写真によつても明らかなように、S・オーレオフアシエンスでも菌体の色は、黄褐色、黄色、白色となる場合があり、寒天が着色する場合としない場合とがある。

(ニ) 蒸煮馬鈴薯

後に第三表に関して述べるとおりである。

(ホ) リトマス牛乳培地

後に第四表に関して述べるとおりである。

(ヘ) 胞子の死滅温度

胞子の死滅温度では、本件特許明細書中「特別の壁の薄い硝子管を使用して測定した」旨記載されており、これは測定方法その他によつて異るものであるから、摂氏五度程度の相違は、種の異同を区別する原因にはならない。

(2)  第三表について

本表におけるS・オーレオフアシエンスの特性は、ワクスマン(一九五三年)四九頁(乙第一号証)の記載によるものであり、これはサイエンス誌(一九四八年)一七九頁(甲第十号証)におけるダガー博士の記述(以下原著という。)から選択されたものである。よつて、次に、右サイエンス誌及びダガー博士のその後の研究を引用して、S・オーレオフアシエンスとS・サヤマエンシスとは全く差異のないことを明らかにする。

(イ) 第一項の基生菌糸の生育については、特段の差異は認められない。

(ロ) 第二項の気菌糸の相違は、初期に白色であることは、両者とも全く同一であり、S・オーレオフアシエンスは五日から七日後、S・サヤマエンシスは古くなると(期間は不明)前者は褐灰色から暗灰色、後者は淡褐色になるというが、褐灰色と淡褐色は色彩の定義上極めて類似したものである。しかも、原著には「褐灰色を経て漸次暗灰色となる」とあり、これらの色の相違は、生育によつて色の移り変る中間色にほかならない。

(ハ) 第三項の肉汁寒天上の可溶性色素については、ワクスマン(一九五三年)には、黄金色の可溶性色素を生産するとの記載があるが、ダガー博士の原著には、肉汁寒天上の可溶性色素については何ら記載がなく、本件特許明細書(甲第一号証)においても、「肉汁寒天培養基上の発育は良好であるが、気菌糸及び分生胞子を生産しない」との記載があるだけで、可溶性色素を生産する旨の記載はない。同じくワクスマン(一九五〇年)四二頁(甲第十一号証の五)に、S・オーレオフアシエンスの性状の記載があるが、ここにも肉汁寒天培地上の前記可溶性色素の生産についての性質は記載されていない。ワクスマン(一九五三年)の記載よりも、この記述をするために引用された原著の記載が優先するから、本書が原著を引用している範囲においては誤記なりといわなければならない。しかもワクスマン自身も、一九五五年一月二十六日附坂口謹一郎博士あて私書簡(甲第十六号証)において、このことを認め、近く出版されるバージーのマニユアル・オブ・デターミナテイブ・バクテリオロジーの第七版は、この記載を訂正すべきことを述べている。しかも、日本における債務者側のベネデイクト株の実験(乙第十三号証の四、乙第二十七号証)においても、S・オーレオフアシエンスは色素を生産しないことが明らかであつた。

(ニ) 第四項の馬鈴薯上の所見について、S・サヤマエンシスは「淡赤褐色可溶性色素を生産す」とあるのは「ジヤガイモ自体黒褐色となる」(明細書、乙第二号証)ことと相いれない(しかも、乙第十三号証の三においては、S・三一〇の性質とし「馬鈴薯は暗色化する」というが、この培地着色の差について合理的な説明がされていない)。しかして、S・オーレオフアシエンスについては、前掲原著及び本件特許明細書とも、馬鈴薯上の可溶性色素については記載がなく、むしろ、菌体の色について細部の記載がある。すなわち、原著には「馬鈴薯片上で色素の生産が良好」とあり、本件特許明細書には「蒸煮馬鈴薯に発育したものは橙黄色(変色したものは褐色を帯びた黄色)」とあり、いずれも菌体の色を示したもので、必ずしも、可溶性色素とはかぎらない。しかしながら、サイエンス誌(一九五四年)九〇頁(甲第十三号証の三)において、ダガー博士は次のように記述している。すなわち、S・オーレオフアシエンスが馬鈴薯上で「淡鈍黄色や粘土色に混つたバラ色、蒼白ないし淡赭鈍黄色からアンチモニー黄色、褐色から鈍黄オリーブ色、更にサンフオード褐色あるいはドレスデン褐色、ブルシアン紅から淡赭紅色や赤ブドウ褐色、マホガニー紅色や栗色に栗毛色の混つた色」を呈する旨及び「馬鈴薯柱は多くの株では着色しないが、ある株では発育する間に褐色ないし黄色の色素が拡散して暗色になつたり、色がついたりする」旨記述しており、これによると、S・オーレオフアシエンスは、馬鈴薯上で、可溶性色素を作る場合もあるし、作らない場合もあり、又その色彩についても、S・サヤマエンシスの淡赤褐色と、とくに相違するところはない。

又、証人佐藤喜市及び有島成夫の各証言による黒屋博士の意見によつても、同博士は、馬鈴薯上の差異は無視しているようであり、種の異同を判定するに価値ある特徴ではないか、あるいは、その差異が分類学的に見て同一とみなし得る程度のものと考えていると推定される。

なお、債務者は、ワクスマン博士がこの五つの点を菌種区別の重要点として、その著書(一九五三年)に記載したものと主張しているが、ワクスマン博士は同書のその章の始めの部分(三八頁)において「引用文献、同義語、不完全に記載された種、個々の(菌)の自然界の棲息場所についてのくわしいデータは、ここにのべない。それらの知識のためには、バージーのマニユアルの最近の刊行物を参照すべきである」と述べており、これによつてワクスマンは前記の五項目が種の決定のための要素として、十分、かつ、完全でないことをみずから述べているものといえる。更に又ワクスマンが「菌の分類には生態学的方法、形態学的方法、培養上の特徴並びに生化学的方法を併用すべきである」と説いていることは前述したが、このことも、ワクスマンが前述の五項目だけで菌種の同定ができるものではないことを明らかにしているものである。

(3)  第四表について

債務者は、これによつて種の区分を行い得るという主張はしていないが、第三表と共通した部分を除いて、この表によつても、S・オーレオフアシエンスとS・サヤマエンシスとが異種であるとは断定できず、かえつて、同一種に属すると認むべきである。すなわち、

(イ) 形態

胞子の形の差異については(第一表、第二表及び第三表について)の項において明らかにしたとおりである。

(ロ) AMD寒天培地上の生育

S・オーレオフアシエンスは、透明から橙黄色となり、S・サヤマエンシスは、白色ないし淡黄色、古くなると淡褐色となるとあり、結局、橙黄色と淡褐色の相違であるが、S・オーレオフアシエンスは、各種の培地上、例えば、アスパラギン・グリセロール寒天上で種々変化するものであり、このことは、サイエンス誌(一九五四年)八二頁(甲第十三号証の九)の天然色写真によつて明らかである。寒天の着色についても、S・オーレオフアシエンスは、本件特許明細書中「わずかに着色するに過ぎない」とのみ記載されている。

(ハ) 肉汁寒天培地及び馬鈴薯の所見

第三表に関して述べたとおりである。

(ニ) リトマス牛乳培地中での凝固、ペプトン化及びPHの変化

S・オーレオフアシエンスは「良好でない黄褐色の生育、凝固及びペプトン化せず」、S・サヤマエンシスは、「淡黄色環状の生育、凝固及びペプトン化行われる、PHアルカリ性となる」とあるが、S・オーレオフアシエンスについて、サイエンス誌(一九五四年)九〇頁(甲第十三号証の三)に、バクトパープル、ミルク(リトマス牛乳と均等物)中で、菌体の色は株によつてクリーム白色、黄色、褐色であり、凝固を起し、又ペプトン化(この場合ではミルクが透明になること)し、又培地をアルカリ化するという記載がある。

更に又債務者も援用しているワクスマン(一九五三年)二六頁十七行目(甲第三十一号証)のS・フラブス群のキイの部分に、これに関係する重要な記載があることを指摘したい。すなわち、同所にS・オーレオフアシエンスのキイ・キヤラクターとして、b、ストロングリー・プロテオリテイツク(蛋白分解強力)というキイ・キヤラクターがあり、これは牛乳培地のペプトン化と近縁の性状を示すものである。なお、牛乳培地におけるペプトン化の差異については、ジヤーナル・オブ・バクテリオロジー(一九五一年)一五四頁以下(甲第二十七号証)のワクスマン博士その他のS・ラベンジユレーに属する諸変異種についての実験報告を見ても、S・三一〇株とS・オーレオフアシエンス(A-三七七)との間に存すると論じられる程度の差異のある菌株が同一種に属せしめられることがわかる。牛乳培地上の性状のうち、ペプトン化とPH変化以外の諸性状は、向博士比較表(乙第二十七号証)、山崎博士の比較表(乙第二十一号証)のいずれにおいても同一である。

本件特許明細書にも「目に見えるペプトン化を示さない」と記載されており、絶対にペプトン化しないとは記載されていない。向博士の証言によれば、向博士の実験したS・オーレオフアシエンス・ベネデイクト株も「牛乳培地を多少ペプトン化するようですが」という程度にペプトン化することが明らかである。これらを見れば、牛乳培地上の所見が量的差異にすぎないことになり、菌種の異同を決する価値のないことが明らかである。証人有島成夫の証言による黒屋博士の説においても、リトマス牛乳培地上のペプトン化の有無だけで種が異るという判断はできないといつている。

(四)  山崎何恵博士の比較表(乙第二十一号証)について

山崎博士の債権者に対する回答書(甲第十七号証)によれば、同博士がS・オーレオフアシエンスとS・サヤマエンシスを比較するために考慮した特徴は、

(イ) 気菌糸のスパイラルの有無、(ロ) 炭素源利用、(ハ) 色素の生産、(ニ) 胞子(コニデア)の形、(ホ) 牛乳培地の凝固、ペプトン化、及びPHの変化

の五つである。そこで、この五点について考察するに、

(1)  気菌糸のスパイラルの有無について

比較表によれば、S・サヤマエンシスにはスパイラルがなく、S・オーレオフアシエンスにはスパイラルがあるとされているが、S・オーレオフアシエンスにおいてもスパイラルのない場合のあることは前記(三)の(1) (第一表、第二表及び第五表について)の(イ)において述べたとおりであり、ワクスマンの書簡(甲第十六号証)附属書類の気菌糸の項においても、同様のことが記載されており、スパイラルの有無については、両者全く同一であることが明らかである。

(2)  炭素源利用について

S・サヤマエンシスは乳糖(ラクトーズ)マンニトール、アラビノーズ、キシローズ(サイローズ)(ただし、キシローズについては、債務者の明細書――乙第一号証――に記載がない。)によつて生育しないか、生育し難いのに反し、S・オーレオフアシエンスはよく生育するという。しかしながらN・R・R・L・に寄託されたS・オーレオフアシエンスに属する菌株を使用し、第三者によつてされた実験によつて、S・オーレオフアシエンスが乳糖、マンニトールに生育しないか、僅かに生育するにすぎないことが明らかにされており〔サイエンス誌(一九五四年)一一二頁、一四九頁の表(甲第十三号証の五及び八)〕両者のこれらの糖利用能は全く同一である。キシローズにおいては、比較表の下部の表にも見られるように、S・サヤマエンシスも僅かに生育するか、あるいは、ほとんど利用しないと書かれており、前記サイエンス誌一一二頁の表の中、S・オーレオフアシエンスのキシローズ利用程度の表示、すなわち、生育程度を「+ ++ +++ ++++ と区分したうちの++」と、S・サヤマエンシスにおける「僅かに生育するか、ほとんど利用しない」という記載とは、主観的表現の違い程度にすぎない。なお、比較表のうち、炭素源についての二つの表に示されたキシローズの利用能力に関する記号も(-)と-の両種類ある。すなわち、この点に実質的な差異は全く存在しない。

(3)  色素の生産について

肉汁寒天において、S・オーレオフアシエンスが黄金色可溶性色素を出すに対し、S・サヤマエンシスは出さないということであるが、この点については、前記(三)の(2) (第三表について)の(八)において述べたとおりである。

(4)  胞子(コニデア)の形について

胞子の形については前記(三)の(1) (第一表、第二表及び第五表について)の(イ)において明らかにしたとおりである。

(5)  牛乳培地上のペプトン化とPHの変化について

この点は、前記(三)の(3) (第四表について)の(二)において明らかにしたとおりである。

山崎博士の書簡(乙第二十八号証)によるも、同博士の鑑定(乙第二十一号証)がS・オーレオフアシエンスの変異種の存在に何ら考慮を払わなかつた結果のものであるという事実を再確認し得るにすぎない。同博士は、右書簡において「特許二〇八、四三八号公告以来その記載より予想され得ない変異種と称するもの……」なる記述をしているが、これは同博士が放線菌の研究家ではないことにより、やむを得ないことである。もし同博士がS・グリセウスの変異に関する多くの論文、あるいは、ジヤーナル・オブ・バクテリオロジー(一九五一年)一四九頁以下(甲第二十七号証)のS・ラベンジユレーに関する諸報告の一つだけでも熟読していたならば「ダガー氏の研究発表」(一九五四年のサイエンス誌中の発表のことであろう。)を驚きの目で見ることはなかつたであろう。同博士は、又「ダガー氏の研究発表が学界に未だ公認されていない」というが全く根拠のないことである。前記同博士の回答書(甲第十七号証)第十九項に、一九四八年版のバージーにより私見を述べたといつているが、右バージーにはS・サヤマエンシスの記載のないのはもちろん、S・オーレオフアシエンスの記載もないのである。結局、山崎博士がS・サヤマエンシスをS・オーレオフアシエンスに属しないと判断されたのは債務者が山崎博士に提供した資料が十分でなかつたことによることが明らかである。

(五)  向博士鑑定書(乙第二十七号証)について

向博士の鑑定書の記載によれば同博士は、右鑑定書の菌比較表記載の性状全部を有するものが一つの種であると考え、S・サヤマエンシスの項記載の菌株がS・オーレオフアシエンス(ベネデイクト)あるいはS・オーレオフアシエンス(ダガー)と別の種であると判断したものと認められるが、放線菌分類上の種としてのS・オーレオフアシエンス種を考える場合には、ただS・オーレオフアシエンス種があるだけで、ベネデイクトもダガーもないのである。もしS・三一〇株をベネデイクト株と異種であるとするならば、その両者間の差異より更に著しい差異を有するS・オーレオフアシエンス・ダガー株とS・オーレオフアシエンス・ベネデイクト株とを別種としなければなるまい。

なお、向博士は、その証言において、種の区分は、細分化すべきものであるという独特の意見を述べている。この独特の説は、同博士が放線菌の専門家であつた場合でも、それは独自の説に止まるものである。もし、同博士の鑑定書が菌株自体の比較でなく、種の比較鑑定であるとすれば、それは放線菌の研究家でない同博士が、ワクスマンの警告している誤り、すなわち、種の設定にあたり、変異の著しさについての認識の誤りから新種を設定するという誤りを犯したものであろう。

(六)  証人有島成夫の証言について

有島証人自身は、S・三一〇株がS・オーレオフアシエンスに属しないと述べているが、同証人はベネデイクト株(事実はN・R・R・L・二二〇九すなわちA-三七七株)の変異の研究を行わず、又特許明細書記載のA-三七七株の性状との間に相当の差異あるにもかかわらず、ベネデイクト株の復元の研究を行つていない。すなわち有島証人の意見は、変異について必要な考慮を払わない意見であるから、本件の争点についての価値ある判断とはいえない。坂口、佐々木両博士の言であるというところのものも、両博士自身が種の異同につき必要な資料を検討して、自身の意見として述べられたものでなく「有島氏が別種というのなら有島氏の意見としてそういつてもよいであろう」ということを述べられたものと解される。

(七)  細谷博士鑑定書(乙第三十六号証、乙第三十七号証)について

(1)  鑑定書(乙第三十六号証)第二項には、「右につき検討の結果、記載事項より次のとおり判断した。」とあるにかかわらず、第三項には「右の判断は前記資料の記載及び自家の若干の培養所見からの判断であるが……」とあり、根拠はもとより、判断の資料すら、あいまいなことがわかる。更に第二項(イ)に「川崎工場においてクロルテトサイクリン製造に使用中の一菌株の培養所見は、S・サヤマエンシスの記載と極めてよく一致する」とある。これは向氏の菌鑑定書(乙第二十五号証)の上下両欄を比較した結果の意見であろうが、右鑑定書の上下両欄の記載は決して極めてよく一致はしていないのである。少くとも、細谷氏が菌鑑定書(乙第三十七号証)で五つの培地における性状の相違をあげて種の区別に役立つと主張しているその程度の不一致は、右向氏鑑定書(乙第二十五号証)の大多数の培地における上下両欄の性状の記載にも見られるところである。細谷氏は菌鑑定書(乙第三十七号証)では色の微差を種の区別に役立つと主張し、一方鑑定書(乙第三十六号証)の第二項(イ)では、同程度ないしそれ以上の性状の不一致を極めてよく一致するという。本鑑定が根拠なく無価値なものであることは明らかである。

(2)  菌鑑定書(乙第三十七号証)においては、「所見の範囲では別種とする」というにあり、その所見を得るための培地は「とりあえず選んだ」ものにすぎない。したがつて、当然鑑定書に引用された所見がS・オーレオフアシエンスの種の性質の概念を与えるものとは判定されていないし、僅か五つの性状の比較で種の判定が完全になし得る根拠も不明である。この五つの性状のみで種の区別を論ずるのなら、S・オーレオフアシエンスに属する菌株は、

(イ) この五つの性状においては、本鑑定書の表下欄記載の性状から全く変らない。すなわち、この性状が不変の性状で、この五つに関しては変異を考慮する必要がないこと。

(ロ) この五つの性状以外は、種の区別の標準として採用できないという理由があること。

の二つが明らかにされねばならない。しかるに今や、(イ)が全く事実に反すること、すなわち、変異が見られること、(ロ)の五つ以外の性状の比較が必要なことは周知のことがらである。(すなわち、形態学、生態学、生化学及び培養上の特徴において比較し、綜合判断すべきことは、債務者も同意見である。)このような周知の事実を否定するような根拠に立つてされた判定は全く意義のないものである。

本鑑定書は、単に二菌株の差異を述べているだけで、種との区分に役立つものではない。S・オーレオフアシエンスの性質については、ダガーの原著、本件特許明細書の性質、一九五四年のサイエンス誌におけるバツカス等の研究報告やワクスマンの書簡等によつても、その変異を考慮して種の概念を想定し得るにもかかわらず、全くこれを無視し、しかも、単に永年人工培地上の継代したN・R・R・L・二二〇九株を基底菌糸塗布方法で培養し、その示した性質(しかもその株の僅か五つの性状のみ、更にそのうち主として色についてのみであり、生産を考慮しない)をもつてS・オーレオフアシエンス株の性質を完全に代表させているところに誤りがある。S・オーレオフアシエンスに限らず、放線菌では変異が著しいことが現在既知の事実である。

既知種の菌株との充分な比較研究を行わずに、新たに発見した株に新種名を与え、その新種名が後日既知菌種のシノニムとして取り扱われるようになる場合、あるいは後日発表の訂正が行われるような場合が相当あるが、今や裁判上の厳格なる判断の必要な本件においては、このようなずさんな種の決定は許されるべきでない。少くとも発表されたS・オーレオフアシエンスのすべての性状を考慮した上で意見が述べられなければならない。

なお、本鑑定書によれば、向氏鑑定書(乙第二十五号証)中の実験記録に記述されているS・サヤマエンシスの各種培地上における紫色調は全く現われなかつた模様である。これはS・サヤマエンシス株の変異を示す一つの証拠であり、又所見のうちに(容易に知り得る)生産物の何たるかを記載しないのは、これを取り入れることを強いて回避しているものと考えざるを得ない。

以下、比較表並びに写真について、右のことを明らかにする。

(イ) カルシウム・マレート寒天

可溶性色素のないことは同一である。

基底菌糸及び気菌糸の色のわずかな相違であるが、この程度の色の変化は、サイエンス誌(一九五四年)一〇〇頁(甲第四十八号証)におけるS・オーレオフアシエンスの人工変異株のカルシウム・マレート寒天上の生育の色を示すバツカス等の天然色写真によつて明らかであるし、更にワクスマンの坂口博士あて書簡(甲第十六号証)のリマークの記載によつて明らかである。

(ロ) 馬鈴薯

基底菌糸の色及び可溶性色素の相違であるが「S・サヤマエンシスは淡黄褐色、(N・R・R・L・)二二〇九はクリーム色」との相違については、N・R・R・L・二二〇九は本件特許明細書(甲第一号証)二頁左欄下より六行目に、蒸煮馬鈴薯に発育したものは橙黄色(変色したものは褐色を帯びた黄色)と明確な記載があり、全く同一である。これからみても、判定に際して用いた右二二〇九の性質だけで、S・オーレオフアシエンス種の性質を代表させることはできないことが明らかである。

更に、S・サヤマエンシスが馬鈴薯を黒変することについては、前記サイエンス誌(一九五四年)九〇頁(甲第十三号証の三)に、S・オーレオフアシエンス中に暗色化する株のあることが記載されている。又S・オーレオフアシエンスは気菌糸を生じないとあるが、永年人工培地上に継代して変異した菌株は、気菌糸生産能を消失することは、ワクスマン(一九五〇年)六九頁(甲第十一号証の三)に「気菌糸生産能消失」として記載されているように、放線菌において一般概念化した一つの変異の方向である。

(ハ) ウシンスキー氏アスパラギン寒天

本培地上の発育の相違が拡大写真によつて示されているが、現在においては、このような写真で種が区分されたことはない。なお、S・サヤマエンシスのコロニーの周縁が高くなつているが、これはむしろ変異しないS・オーレオフアシエンスに見られる現象であり、本件特許明細書二頁左欄一行に「ボタン様のコロニーを造る。表面のコロニーは高くなり、中心部は幾分凹む」との記載がある。なお又、S・グリセウスについては、サイエンス誌(一九五四年)一六五頁、一六七頁(甲第四十九号証の一及び二)の写真に、コロニーの各種の変化がデユレニー氏により示されている。

(ニ) ツアベツク氏寒天

両者の基底菌糸の裏面の色は、単に黄色及び褐色を混じた色調の変化にすぎない。向氏鑑定書(乙第二十五号証)によれば、S・サヤマエンシス株の基底菌糸(生育)の裏面は淡黄色となつていて、N・R・R・L・二二〇九株の方がかえつて中心部黒褐色周縁部黄灰色を呈すとある。

可溶性色素に至つては、向氏の比較表(乙第二十七号証)によれば、前記二二〇九株の方には現われない。この一つからでも、変異の概念を採り入れる必要性が明らかである。気菌糸の色は、色菌では、ほとんど同じである。もちろん、ワクスマン書簡(甲第十六号証)リマークの項によつても、このような色調の差異が種の判定に役立たぬことが明らかである。

(ホ) リトマス・牛乳

S・サヤマエンシスが凝固、ペプトン化し、培地がアルカリ性になるに対して、右二二〇九は弱酸性となるということのみの記載があつて、凝固ペプトン化については何らの記載がない、S・オーレオフアシエンスについては、前記サイエンス誌九〇頁(甲第十三号証の三)に、その変異株中に牛乳培地を「明瞭にアルカリ性」とする株があることが記載されている。その他黒屋教授の意見(佐藤、有島証言による。)、向博士の証言、梅沢博士の証言調書(甲第三十四号証の二のイ、)によつても、リトマス・牛乳上の差異は、種の異同を論ずるに価値のないことであることがわかる。

なお、前記各項の差異は、細谷氏が鑑定書(乙第三十六号証)第二項(イ)で向氏鑑定書(乙第二十五号証)を検討し、上下両欄記載が極めてよく一致すると述べているその上下両欄の間の差異と同程度である。したがつて、右鑑定書(乙第三十六号証)第二項(イ)の細谷氏の鑑定の意見を菌鑑定書(乙第三十七号証)にあてはめれば、S・サヤマエンシスと前記二二〇九の性状は、「極めてよく一致する」といわなければならない。以上要するに、これらの所見によれば、むしろ両者が異株であり、かつ、両者ともS・オーレオフアシエンス種に属するという結論でなければならぬ筈である。

八、仮処分の必要性について

以上述べたところにより明らかなように、債務者がS・オーレオフアシエンスに属しない菌株を使用してクロルテトラサイクリンを製造しているという疏明は全く存在せず、したがつて、特許法第三十五条第二項の規定により債務者の特許権侵害行為の存在が推定されるのみならず、更に債務者の保持すると主張する菌がS・オーレオフアシエンスに属することが疏明されるのであるから、債務者が債権者の本件特許権を侵害していることは明らかである。よつて、債権者は、債務者を被告として特許権侵害行為禁止等の訴訟を提起しようとするものであるが、この種訴訟は、その確定までに相当の時日を要し、その間債務者の行為を放任するときは、刻々債権者の権利は侵害され、債権者が本物資の用途、効能を周知させるため投じた幾億の投資の結果を無償で窃取され、なお、債務者の不正競争のため債権者の営業上の信用と販路は侵害される。

すなわち、債権は抗菌性物質の研究に米貨千五百万ドル(邦貨に換算して五十四億円)を費し、その改良研究等に更に七百六十万ドル(邦貨二十七億三千六百万円)を投じている。このように多額の費用を投じ、その結果得られた唯一つの成果がクロルテトラサイクリンであり、その工業所有権を理由なくして侵害されることは債権者の到底忍び難いところである。

債権者は、日本において、日本レダリーをして本件特許を実施させているが、同社は債権者に対し、実施料として製品販売高の十パーセントを支払うものである。なお、日本レダリーの出資は、債権者五十パーセント、武田薬品工業株式会社五十パーセントの資本構成(受権資本七千万円)であるから、その利益の半額が債権者の所得となる。しかして、日本レダリーは、現在月額八百キログラムの生産能力を有し、日本国内におけるクロルテトラサイクリンの全需要量を充足することを得るのである。(日本国内の全需要量は毎月約五百五十キログラムと推定される。)

この状況においては、債務者会社が競争品を製造販売する数量だけは、右日本レダリーの販売し得べき数量の減少を来たし、それだけ債権者の利益の喪失を来すことは明らかである。債務者は近時毎月二百キログラムを製造販売するというが、これにしたがえば、日本レダリーの蒙る販売上の損害は、一グラムに対する利益をグラム当り最低五十円として、毎月一千万円に上る。この場合、債権者自身は、この利益の半額五百万円を失うほか、実施料として販売金額の一割月額五百二十万円を失うこととなる。なお、販売高の増加による原価の低下の利益は、少くともグラム当り二十円、生産高月額六万キログラムにつき千二百万円であるから、債権者の蒙る損害は、その半額六百万円となる。

本来、特許権者は、法律の定める独占権を有し、自己の定めた価格をもつて、特許権存続期間中、その製品を販売することができるものであるが、不正の競争者が現われると、この独占の権利を行使することができなくなる。現に、債権者は、米本国並びに全世界にわたり、本商品一グラムにつきF・O・B価格三百三十円をもつて販売する方針を決定しているが、日本においては債務者会社の不正な競争により、今日においては一グラムにつき七十円の値下げを余儀なくされた。債務者は、近時、この他特売によつて実質価格を更に引き下げている。薬業界の経験として薬品の値下げが四年五年という長期にわたつて継続すれば(実際問題として本件のような訴訟が日本裁判所に係属すれば、少くとも五年間の日子を経なければ、本案判決が確定しないことは顕著な事実ということができよう。)、たとえ本案訴訟において勝訴し、特許権を完全に行使し得る時期に到達しても、薬価を日本を除く世界並(一グラム三百三十円)に引上げることは、ほとんど不可能といつて過言ではない。このことから生ずる損害は、極めて莫大であり、ほとんど推算することもできないものである。

なお、全世界を通じ、過去に二、三債務者と同様不正にクロルテトラサイクリンを製造販売しようとする者があつたが、これはいずれもその国の法律により生産を停止せしめられ、現在は債務者が全世界を通じて唯一の不正なるクロルテトラサイクリン製造業者である。債権者が特許権を有する国においては、その国に登録した特許の効果として、債務者の販売を禁止し得るものと仮定しても、その他の国例えば朝鮮、台湾、フイリツピン、インドネシヤ、タイ、アフガニスタン、サウジ・アラビア、トランスヨルダン、イスラエル、クワイト、アデンその他共産主義諸国においては、債務者がこれらの国において安売りすることを禁止する手段なく、これにより債権者の蒙る損害は、すこぶる巨大で、ほとんど算定不可能である。

これに対して、債務者が本件仮処分の執行によつて受ける損害は局限された金銭的損害にすぎず、しかも、その損害たるや、債務者会社の営業部門に属する商品の販売総額の百分の三以下であり、金銭的損害のほかあるいは信用の失墜、研究意欲の喪失というも、これらはいかなる仮処分、いかなる訴訟においても、敗訴者の常に蒙る損害であつて、本件の場合に限つて発生するものではない。

よつて、債務者の本件特許権侵害による著しい損害を避け、かつ、急迫な強暴を防ぐため、本件仮処分申請に及ぶ次第である。

九、債務者の予備的主張について

(一)  仮処分は、その性質上、仮差押とは異り、仮差押の場合におけるように、予めその解放のため供託すべき金員を決定して命令を発すべきものではない。

(二)  本件においては、仮処分執行取消の事由としての特別事情は存在しない。すなわち、本件仮処分の執行によつて債務者の蒙る損害は、前述のように、通常の損害であり、異状の損害を蒙るものとはいえず、また、本件においては、被保全権利が金銭的補償によつて最終の目的を達し得る場合にもあたらない。本件の被保全利益は無体財産権であり、必ずしも金銭に見積り得られる利益のみを目的とするものではなく、保証を立てたからといつて、その権利侵害を公許されるべきものではない。又本件のように保全しようとする権利の侵害によつて、債権者側に生ずべき損害額を立証することが著しく困難又は不可能であるときは、特別の事情が存在しないものというべきである。

よつて、債務者の予備的主張は理由がない。

第二債務者の申立及びその理由

(申立)

債務者訴訟代理人は、本件仮処分申請は却下するとの判決を求めその理由として、次のとおり述べた。

(理由)

一  争わない事実

債権者主張事実のうち、第一項(本件発明の概要)及び第二項(本件特許の要旨)の事実は認める。ただし、第二項のうち、A-三七七が例示菌であることは否認する。また同項中「本件特許の要部は……新規にして有用な物質クロルテトラサイクリンを製造する点にあり。」として、あたかも本件特許がクロルテトラサイクリンそのものに対して付与されたかのように述べているのは妥当ではない。もつとも培養法自体に新規な発明の存在を要求されたものでない点は認める。第三項(「S・オーレオフアシエンスに属する菌株」について)の(一)のうち、S・オーレオフアシエンスが債権者主張の六つの性質を有すること及び第四項(特許権の侵害)のうち、債務者が債権者主張のとおりクロルテトラサイクリンを製造販売していること並びにその製品の構造式が別紙(い)のとおりであり、債権者のものと同一であることは、認める。

二  債務者の生産方法

しかして、債務者のクロルテトラサイクリン生産方法は、債務者の研究所員が東京近郊狭山地方の土壌中から発見分離したS・サヤマエンシスと呼ばれる種の菌を水性培養基に接種し、好気性醗酵を行わせるものであり、S・サヤマエンシスはS・オーレオフアシエンス種に属しない別種の菌であるから、債務者がこれによつてクロルテトラサイクリンを製造しても、本件特許を侵害するものではない。なお、債権者は、S・サヤマエンシスという名称が学界に公認されていないから、S・サヤマエンシスなる菌は在存しないと主張するようであるが、債務者は、自己の使用する菌株を便宜上S・サヤマエンシスと呼んでいるのであり、名称が公認されているかどうかは、本件には、何ら関係はない。

(この点は後に詳述する。)

三  S・サヤマエンシスについて

S・サヤマエンシスが標準培地において示す特性は、別紙附属表の一記載のとおりである。この特性は、昭和二十八年四月八日、日本農芸化学大会において、債務者の研究所員によりS・三一〇号菌として発表され、債務者から出願した昭和二十七年特許第一〇、六〇六号の特許出願明細書(乙第二号証)に「S・フラボヴイレンスに近似の一種」として記載されているが、これを本件特許明細書に記載されたS・オーレオフアシエンスの特性と対比すると別紙附属表の二特性比較表第一表に示すとおりである。

S・オーレオフアシエンスの工業的に実用される生産培地として最も好適なものは、本件特許明細書に示すように、コーン・スチープ・リカー並びに蔗糖を主成分とするものであるが、S・サヤマエンシスにおいては、このような培地は不適当であり、むしろ、大豆搾油粕及び澱粉を主成分とする安価な培地で好結果を奏するものである。

S・オーレオフアシエンスは、本件特許明細書に示すように、培養中に酸性物質を生産し、培養基をPH4まで低下させ、菌の発育を妨げるので、醗酵にあたつては、培地にアルカリ又はアルカリとして作用する物質を添加する必要があり、したがつて、生産されるクロルテトラサイクリンは、アルカリ性物質と化合した形で沈澱分離するを要するのに対して、S・サヤマエンシスは、醗酵中に酸性物質を生産することがなく、そのままの状態で漸次アルカリ性に移行する特性を有し、菌は常に旺盛な発育を続けるばかりでなく、生産されたクロルテトラサイクリンは不溶性沈澱物として溶液系外に除かれ、その採取は極めて容易である。

工業的醗酵において、生産されるクロルテトラサイクリンの収量は、S・オーレオフアシエンスにあつては、せいぜい四百ミクログラム/cc(本件特許明細書の実施例記載)であるのに対し、S・サヤマエンシスによれば、三千ないし四千ミクログラム/ccのクロルテトラサイクリンの生産が可能である。

四  本件特許の権利範囲について

(一) S・オーレオフアシエンス種の決定基準について

債権者は、S・オーレオフアシエンス種の「標準的のものは次の数個の性質をそなえており、この性質のうち重要なもの又は多くのものを共通して具備するものが、S・オーレオフアシエンスである」として六個の性質をあげている。債務者は、S・オーレオフアシエンスがこの六個の性質を有することについては、争うものではない。すなわち、右六個の性質とは、

(イ) ストレプトマイセス属であること。

(ロ) 基生菌糸に黄色色素を生ずること。

(ハ) クロルテトラサイクリンを生産すること。

(ニ) 通常の培地によく生育すること。

(ホ) 基生菌糸は、透明、黄変、気菌糸は白色、胞子は初め白色であること。

(ヘ) 菌糸は、他に類似のもののあるような分裂法で分裂すること。

である。

このうち、(イ)、(ニ)、(ヘ)は、ストレプトマイセス属の通性であつて、属の下の種を区別する条件とはなりえない。(ホ)のみがやや具体的に示された特性であるが、この程度の性質の記載は、他の放線菌にも認められるので、既知の他の品種と区別される特性とはいえない。又(ロ)については、この項目の原著者であるダガー博士自身がサイエンス誌(一九四八年)一七九頁(乙第四号証)に発表し本項目に附記した「以上の記載の特性(主として黄色色素の生産)を共有している多くの既知の品種と比較研究を行つているので、その結果を追つて発表する」旨の記載によつても、これをもつて、S・オーレオフアシエンスのみに認められる真の特性といえないことは明白である。結局、この六個の性質とは、S・オーレオフアシエンスはクロルテトラサイクリンを生産するという唯一の基準を示すにすぎない。しかして、代謝物生産能力は、放線菌分類の基準とならないことは後に述べるとおりであり、この六個の性質は、S・オーレオフアシエンス種の決定基準とはなり得ない。(しかも、債権者が権利を主張している本件特許明細書には、このように漠然と書かれているわけではない。)(次項参照)

(二) 「S・オーレオフアシエンスに属する菌株」とは何か。

S・オーレオフアシエンスは、債権者主張のとおり、B・M・ダガー博士等によつて初めて分離されたものであり、本件特許は、S・オーレオフアシエンスなる新種を使用することをもつて要旨とするものであるから、その新種であるとの認定は、本件特許明細書に記載されたその菌の性質を唯一の根拠とするものである。特許は、完成された思想としての発明に対して付与されるものであり、さればこそ、特許法施行規則第十一条も「発明の要旨の変更は出願中といえども許さない」としているのである。したがつて、もし本件特許明細書の性質と相反するか、あるいは、両立しない性質を後日の研究によるとして附加するならば、菌の同定の根拠は失われることとなり、特許権の権利範囲は限定できないこととなる。ただ、明細書記載の性質と矛盾せず、これを更に限定するような性質の援用を拒むものではない。したがつて、S・オーレオフアシエンスの具体的特性としては、あくまで特許明細書記載の特性によるべきであり、これ以外には第三者の認識としてワクスマン(一九五三年)の記載、あるいは、成立について疑問はあるが、ワクスマン博士の坂口博士あて書簡(甲第十六号証)の記載によるべきである。

本件特許請求範囲にいう「S・オーレオフアシエンスに属する菌株」とは、「S・オーレオフアシエンス種に属する菌株」ということであり、この「種」という既念が放線菌分類学上の概念であることは、債権者主張のとおりである。しかしながら、本件特許明細書記載のA-三七七菌株をもつて例示菌株とすることはできない。すなわち、本件特許明細書における菌の記載の冒頭に「ウルトラモールドとも呼ばれる菌S・オーレオフアシエンスは、かつてストレプトマイセスA-三七七と名づけられ、最初は……」とあることをもつても、到底このような解釈は不可能であり、むしろ、これによつてS・オーレオフアシエンス種に共通する特性を記述したものとみなければならない。もし、これが例示であるとすれば、明細書に、たとえばリトマス牛乳をペプトン化しないと記載してあつてもペプトン化することをも示すものとならざるを得ず、そうなれば「種」には関係せず、放線菌であれば何でもよいという結果になり、S・オーレオフアシエンスとあつても、単にストレプトマイセス属の菌株というのと同じことになる。

仮に、学問的にはS・オーレオフアシエンスの性状の幅の拡張が認められたとしても、本件特許明細書の記載と異つた性状を有する菌株については、追加特許又は別特許を受けないかぎり、特許権の保護は求められない筈である。

(三) S・オーレオフアシエンスの固有の変異性について

放線菌は、仮に、債権者の主張するように、著しく変異するとしても、変異の方向と幅とが特許出願当時予想されていない限り、変異種の性質は原明細書の性質を変更し、あるいは、これに附加されるべきものではない。(もし、これが許されるとすれば、特許権の範囲は不明確不限定のものとなるからである)。

種はその下位に変種を含むとの債権者の主張は争わない。しかし、下位に属する以上、変種の性質は、本来の種のそれよりひろがるわけではないし、一般に、その種の特性を共有し、ただ微細な点において異るものが変種といい得るのである。しかしながら、放線菌においては、親株から生れた子孫は、いかに変異しても、すべて親株に属するとの債権者の主張は分類学上の約束からみて矛盾がある。すなわち、親子関係をこのように重視するとすれば、他の種と同じ性質を示す人工の突然変異種を得た場合、これを親の種に属せしむべきか他の同一性質の種に属せしめるべきかが問題とならざるを得ないからである。債権者の論法をもつてすれば、S・オーレオフアシエンスの変異種は極めて広範に変異するから、その一つの性質を取り上げて論ずると、すべての放線菌はS・オーレオフアシエンスと同じ性質を示すこととなり、すべての放線菌は、S・オーレオフアシエンスであるということになるのである。

明細書の記載に不備があり、そこに自然変異種及び人工変異種の記載を欠いていても、これらの変異種は特許の権利範囲から逸脱しないと債権者は主張する。しかし、サイエンス誌(一九五四年)(甲第十三号証)における実験報告(しかも、右実験報告は学問的に公認されているものではない。)の援用は、本件特許明細書の記載と相いれない性状の附加であり、換言すれば、明細書の記載の無価値化である。不備とは原記載における脱落を意味するものであり、白という原記載を黒と訂正し、あるいは、白又は黒と訂正し得るということではない。しかも、自然変異種とは、学問的にはなはだ不明確な概念である。すなわち、その自然変異種なるものは、原種の性状と異つているものであるが、人工的に変異させたものであれば格別、この変異種が自然的にいかなる原種から変異したものであるかは何をもつて確認するのであるか。又このような変異種が前記サイエンス誌記載のような広範囲な性質の変異を示すことは、本件特許明細書からは到底予測できないところである。

したがつて、ある人工又は自然の変異種が得られた場合にも、これが原種と同一の種に属するかどうかは、本来の性質と変異種の性質との比較によつて定められるのであり、その変異種の親子の関係によるのではない。仮に、ある親株から出た子孫であつても、その特性が親株と異り、又その特性が親株の特性に復帰できないものであるときは、例外的場合を除き、異種とみなければならないのである。(なお、S・サヤマエンシスはS・オーレオフアシエンスから変異させたものではないから、親株から出た子孫がいかなる種に属するかということは、本件と関係のないことである。)

債権者は、本件特許明細書八頁に「S・オーレオフアシエンスの個々の菌株により収率が幾分異り、又菌株は必ずしも本来の性質のままに留まるものではなく、固有の変化により時とともに性質が異ることがあることに注意すべきである。」と記載されていることによつて、S・オーレオフアシエンスの固有の変異性が明示されていると主張するが、この記載は、実際的醗酵に関する記述であり、同一個所に、「収率は幾分異り」「よい成績をあげる」等と記述されているところから見ても、ここにいう「性質の変る」とは、実際的醗酵に際し「活性の変化する」という意味であつて、「変種」の記載でないことは明らかであり、これを菌学的記載と直結して、あたかも菌学的性質についての記載であるかのようにみることは、極めて不当である。

ただ、本件特許明細書において、明らかに変化すると認めて、その幅を示しているのは、AMD寒天上の所見について「選択される数種の型において、菌糸塊の着色は湿気を帯びたペルシヤ黄色、あんず黄色、とうもろこし黄色、純黄色、または、より透明な性質の混濁変化で表わされる」と述べている個所だけである。

(四) 「均等物」又は「同効菌」について

特許法の解釈上「均等物の変換」は、「設計上の微差」と同様に、別発明を構成しないことは通説である。しかし、この場合の均等物とは、当業者が明細書から容易に均等の効果を有することを推考しうるものに限るのであつて、明細書からは予想しえない新たな物を持ち来つて、これが均等の効果、あるいは、より以上の効果をあげることを発明したならば、これは別発明を構成するものであり、この物は、均等物とはいいえないのである。債務者が使用している菌株、すなわち、S・サヤマエンシスは、本件特許出願当時いまだ発見されていないものであり、もち論、均等の効果を有する(クロルテトラサイクリンを生産する)とは、何人も推考し得ないものであつた。

債権者は、本件特許出願の審査中、特許請求の範囲を「S・オーレオフアシエンス又はこれと均等なオーレオマイシン生成用有機体の培養物を……」と訂正しようとし、これが特許庁により許されなかつたところ、更に「S・オーレオフアシエンス及び同効菌を……」と訂正を申し出て許されず、その結果、本件特許明細書に見るように「S・オーレオフアシエンスに属する菌株」と訂正して出願公告、特許されたものである。このような審査経過からみても、クロルテトラサイクリンを生産するという点で効果均等の菌であつても、S・オーレオフアシエンスと種を異にすれば、これに対して特許権の及ばないことは明らかである。

仮に、本件特許の権利範囲が効果均等のすべての菌に及ぶとすれば、本件特許は、結局、生産されたクロルテトラサイクリンそのものの特許と同一になり、医薬品については物の特許を許さずとした特許法第三条第二号の規定に明らかに反することとなる。

(五) ベネデイクト株について(附、向博士鑑定書の意義)

債権者は、とくに、向博士の鑑定書(乙第二十七号証)及び原稿(乙第十三号証の四)に関して、ベネデイクト株の性質を援用しているが、債務者は、債務者の菌株が培養条件の差異により、本件特許明細書記載のS・オーレオフアシエンスと異つた性状を示したのではないかとの疑をさけるため、同一培養条件によりベネデイクト株を実験し、この実験結果をも併せて種の異同の鑑定の際の考慮に入れたのである。債権者は、S・オーレオフアシエンスを、N・R・R・L・二二〇九として寄託したものがベネデイクト株であるというが、債務者はこれが本件特許にいうS・オーレオフアシエンスに属する菌株であるかどうか知らないし、又これにつき何らの保証又は同意をするものではない。向博士の鑑定は、債務者が現に使用している菌株が本件特許明細書にいうS・オーレオフアシエンスではないこと、ベネデイクト株の実験結果を考慮しても、なお、そうであることを鑑定しているのであつて、債権者の非難はすべて当らない。債務者の使用している菌株が新種であるかどうかは全く本件の争点に関係ないのであつて、向博士の鑑定もまた、特許明細書にいうS・オーレオフアシエンスとは別種であるとしたに止まり、債務者の使用している菌株が新種であるとしたわけではない。仮に、原稿の発表が誤りであり、債務者の使用している菌株がS・フラボヴイレンスと同定されるとしても、S・フラボヴイレンスを使用することは何ら本件特許の権利範囲には属さないのである。

それ故、ベネデイクト株が、はたして、本件特許のS・オーレオフアシエンスであるかどうかは、本件とは別個の問題であり、もし、この菌株の性質の援用を必要とするならば、そのことは債権者が疏明すべきである。いずれにしても、この菌株の性質は本件特許の権利範囲とは関係がなく、もちろんその権利範囲を拡大するものでもない。又仮に、この菌株がS・オーレオフアシエンスであるとしても、これと債務者の菌株(S・サヤマエンシス)とが別種であることに変りはない。(東風博士等の研究を基礎として緒方浩一氏が作成した比較表 甲第二十五号証-のS・リモーススとS・グリセオフラーブスとの差は、S・サヤマエンシスとベネデイクト株との差よりも遙かに少いことは、一見して明らかである。)

五  特許法上の推定について

本件特許の方法は、その名称等において、「クロルテトラサイクリン製造方法」というも、単にその第一段階たるクロルテトラサイクリン含有の醗酵液生成方法にかかるものであり、最終的にクロルテトラサイクリンを得るためには更に、ある方法によりこれを精製しなければならないものである。(債権者はこの醗酵液からクロルテトラサイクリンを精製する方法について別に特許を得ているし、又多数の特許出願をしている。)しかして、醗酵液の状態においては、債務者のそれが本件特許のそれと著しく異ることは、前記第三項後段において明らかにしたとおりであり(醗酵液の状態が同一であるならば、債権者がこれを疏明すべきである。)、したがつて、最終製品の同一性、換言すれば、最終目的物の同一性のみの故をもつて、債務者の第一段階である醗酵の方法が特許法第三十五条第二項により特許の方法と同一と推定されるものではない。

六  放線菌の分類について

(一) 放線菌(アクチノマイセテス)の分類は可能であること。

債権者は、放線菌、ことに、ストレプトマイセス属は、その性質が変転極まりなく、一定の形式をもつては表現不能であるから、その分類が困難であり、種の限定は不可能であると主張するが、債務者は、「ストレプトマイセス属の分類は整然と存在している」と主張し、この点に関し、ワクスマン(一九五三年)――ワクスマン博士及びルシユバリエ氏の著書「アクチノマイセテスとその抗菌性物質の分類及び同定に対する指針」――(乙第一号証の一、二、乙第十一号証の一から九)を引用する。(なお、ワクスマン博士は数十年来放線菌、とくにストレプトマイセス属に関し専門的に研究を続けた世界最高の分類学者であり、又ストレプトマイシンの発見者として著名であり、その業績によつてノーベル賞を得られたことも、また人のよく知るところである。細菌の分類書としてよく引用される「バージーの分類書」中のストレプトマイセスに関する項は、すべてワクスマン博士の筆になるものである。)

(二) 分類せんとする微生物の標準化

ワクスマン(一九五三年)は、その本文第一頁序論の冒頭において、次のように記述している。(乙第十一号証の三)

「放線菌を分類するには、とくに種としての差異を確立するためには、二つの重要なことを了解せねばならぬ。その一は、この微生物が基生菌糸と気菌糸を作り得ることであり、その二は培養が非常に変化することである。この微生物をよく了解し分類の差異をみとめるためには、よく検討された培養基を用い標準の培養条件によらなければならない。」と。

以上のことが冒頭にあげられた理由は重大であつて、債権者は、この引用の中間にある「培養が変化する」ことをもつて、限定不能であるかに説かんとしているが、これは「標準方法」を用いることによつて、完全に防止できるとワクスマンは述べているのである。

(三) ワクスマン、ヘンリシーの分類法

同書第九頁から第二〇頁にワクスマン、ヘンリシーの放線菌の分類法が説明されている。これによると、放線菌を百四十七以上の種に整然と分類し記載しているが、その内容は、次のとおりである。(乙第十一号証の五)

A 死物寄生菌-生活適温が低温ないし中温性

別紙(附属表の三放線菌分類表第一表のとおり)

B 死物寄生菌-生活適温が高温性

本項を省略す。(111) より(114) まで4種に分類す。

C 植物寄生菌、あるいは病植物が生えていた土壌より分離されたもの(ミラード及びバルによる)

本項を省略す。(115) より(137) まで13種に分類す。

D 動物組織、動物体より分離されたもの

本項を省略す。(138) より(146) まで9種に分類す。

E 気菌糸を生じないもの

本項を省略す。(147)

(四) ワクスマン、ヘンリシー分類法における種の区別に重要な「特性」

前記の表中A、B、C……の項は、放線菌の分類上最も重要なメルクマールをとつたもので、例えば、放線菌中Aのメルクマールとして、「死物寄生、適温は低温ないし中温」と限定すれば、ほとんどすべての抗生物質生産ストレプトマイセスの種を包含するものである。次にI、II、III ……の項は、A、B、C……の各群の間では共通な性質も含まれているが、A群B群等それぞれの一つの群中では最も重要なメルクマールである。次に、同様に1、2、3……の性質は、I、II、III ……の各群の間では共通な場合もあるが、I群中のみ又はIIIII 群中それぞれ一群のみの間では最も重要なメルクマールである。このようにして順次重要な性質をa、b、c……、a1、b1、c1……、a2、b2、c2……、a3、b3、c3……のように表示している。

ワクスマンもいうように、一般的に放線菌を同定する唯一の基準はないのであるが、ある菌が他の菌と異る種であると見分けるには、顕著な一個の差異だけで十分なのである。すなわち表中にあるようにしてそのメルクマールを顕著なものから順次組合せて表現するのである。

例えば、S・アルブスは、次のように表現される。

I有機性培地上に可溶性色素欠除又はかすかな褐色、桃色、紫、黄金色又は青色

1.色素が蛋白培地で欠除又はかすかな褐色

a1気菌糸豊富で白色

aラセン体(スパイラル)が形成され、胞子球形又は楕円体形

であるのに対し、S・ロンギンボルスは、前記I1.aまでの特性は、S・アルブスと同じであり、a1に相当する性質が「長く開いたラセン体が形成され、胞子が円筒形である」という点で異つている。つまり、S・アルブスと、S・ロンギスボルスは、他の性状において一致し、単に胞子の形が、前者は、球形又は楕円体形、後者は円筒形であることにより別種とされているのである。

又、(11)S・ビリダンスは「色素が初め縁色のち褐色となる」性質をもつているが、(13)S・カリホルニクスは「可溶性色素を生じない、合成培地上桃色、有機培地上黄色の生育」なる性質で前二者と区別されている。すなわち、生育及び可溶性色素の色調は重要な分類の鍵である。

又(15)S・フラベオルス(16)S・パルブス(17)S・キサントフエウスの三種は、他の性質は皆同一であつて、ただ、気菌糸の色が(15)は白、(16)は薄い黄色、(17)は白、灰色ないし赤灰色である点で三つの種に区別されているものである。(しかも、(15)及び(16)は、ともにアクチノマイシンなる抗菌性物質を生産することが知られている。)又、これら(15)、(16)、(17)の三つの「種」における胞子の形は、卵形ないし楕円体形であるのに対し、(18)のS・セルローザエは胞子が球形であつて、セルローズ分解能のある点で区別されて別種とされている。すなわち、胞子の形は、球、楕円体、円筒等の形がそれぞれ重要な分類の鍵となり、同時に、特殊な物質を分解利用する能力についても重要な意味を与えているのである。

次に、(19)S・リモースス、(20)S・グリセオフラブス、(21)S・オーレオフアシエンスの三つの種について、これらのメルクマールをなすものを表から摘記すると、次のとおりである。まず、三種共通な性質は、次のとおりである。

I 有機性培地上可溶性色素欠除又はかすかな褐色、桃色、紫色又は青色

5、生育が黄色、緑色又はオレンジ色、可溶性色素黄色ないし黄金色

C 生育が赤褐色ないしオレンジ褐色を示し、白ないし灰色の気菌糸で覆われる。合成培地上の可溶性色素黄色

次に、この性質をそなえ、かつ、次の点で異つたものを、それぞれ次のように分類する。すなわち、

(19) S・リモースス ゼラチン上可溶性色素なし

牛乳をペプトン化せず

(20) S・グリセオフラブス ゼラチン上微黄色を呈し液化

牛乳を急速にペプトン化す

(21) S・オーレオフアシエンス 可溶性色素黄金色

すなわち、これら三種のうちで、S・オーレオフアシエンスの特性としては「可溶性色素黄金色」のみが他の「色素なし」「微黄色」に対し特異であるとして、分類せられて、別種と認められているのである。しかも、S・リモーススはオキシテトラサイクリンとリモシヂンを、S・グリセオフラブスは同じオキシテトラサイクリンとリモシヂンを、S・オーレオフアシエンスはクロルテトラサイクリンを(いずれも抗菌性物質)生産することは著名である。同一抗菌性物質オキシテトラサイクリン及びリモシヂンを生産するS・リモーススとS・グリセオフラブスの「種」の差異は、S・リモーススの蛋白分解能力がS・グリセオフラブスに比して劣つていると見ることができ、この点のみで両者が互に異種として公認されているものである。しかも、S・グリセオフラブスは、クラインスキー及びワクスマン等により、一九一四年すでに記載あるものであり、S・リモーススは、ソビン等により、一九五〇年発見され、米国特許第二、五一六、〇八〇号に記載された有名なオキシテトラサイクリン生産菌である。結局

(イ) 種の限定に記載された特性の個々は、他の特性の個々と類似又は同一のものがあり得ることは当然である。

(ロ) したがつて、ある種の菌の個々の性質が他種の菌の個々の性質と類似していることをもつて、それらが同種とは断じ得ない。

(ハ) これらの特性の組合せが表現する「全特性」すなわち、生態学的方法、形態学的方法、培養上の特徴並びに生化学的方法による知見の組合せが種の同定の要件である。

(ニ) 生育及び気菌糸の色調、可溶性色素の有無及び色調、胞子の形、ラセン体(スパイラル)の有無、牛乳培地のペプトン化、その他の特有物質の分解能等が分類に用いられる重要な鍵であり、色素が無色、微黄色、灰色等の程度で、又胞子の形は球、卵、円筒の程度で、又牛乳培地をペプトン化する、しないの程度で、これらを重要な分類の鍵として、それぞれその一を異にするのみで、異種と断定され、公認されている例が多い。

(ホ) 代謝物生産能力は放線菌分類の鍵として使用されていない。といい得るのである。

(五) 類似の種をまとめて大きな群とする分類法

次に、同書は二〇頁以下に「抗菌性物質の生産の見地からみた重要なストレプトマイセス群――種の分類」という標題の下に、やや大きい範囲の分類法を示している。すなわち、近縁の種を数種集めて群を形成せしめ、その群をもつて分類して、種の区分を更に明瞭にしようとする試みである。すなわち、次の七群に分つ。

S・アンチビオチクス 群

S・ラベンジユレー  群

S・グリゼウス    群

S・フラブス     群

S・ルバー      群

S・フラヂヤー    群

S・アルブス     群

しかして、S・オーレオフアシエンスは、S・フラブス群中に分類されており、本群について、種は次のように分類される。(乙第十一号証の六)

A 倍地中にいかなる可溶性色素をも生じない。

別紙附属表の三放線菌分類表第二表のとおり

B 可溶性色素を培地中に出す

別紙附属表の三放線菌分類表第三表のとおり

以上の表で明白であるように、この群中には種々の抗菌性物質を生産する種が包含され、その「種」は、それぞれ次のような特性で区別されている。すなわち、S・セルローザエとS・グラミネアリスは、他の性質は同一組合せで、セルローズの分解能の有無のみの差異で、これを重要なメルクマールとして異種とされ、S・デニトリフイカンスとS・オリバセウスは硝酸塩の還元程度が少し異るのみで、これを重要な鍵として分類され、異種とされている。

又、S・フラベオールス、S・オーレオフアシエンス、S・リモースス及び、S・グリセオフラブスについてみると、S・フラベオールスは蛋白分解力の弱いことと、桔抗性のないことで他の三種と区別されており、後の三者のうち、S・オーレオフアシエンスは、気菌糸が白より褐色を経て暗褐色となる点で他の二種と区別され、残りの二者は、気菌糸が白ないし薄い褐色である点で、S・オーレオフアシエンスと区別され、S・リモーススはスパイラル(ラセン体)が生ずる点、S・グリセオフラブスはスパイラルを作らない点で、両者が区別されるのである。すなわち、気菌糸の色が白→褐→暗褐色となるのと、白→うすい褐色となる点で、それをメルクマールとして種の別が生じ、又蛋白分解力の強弱も判定の重要な鍵であり、スパイラルの有無のみでも、それをメルクマールとして、種が区別されていることが知られるのである。

(六) クラシルニコフの分類法

債権者は、前述のワクスマン(一九五三年)の六頁以下(乙第三十八号証)にクラシルニコフの分類を挙げていることをもつて、ストレプトマイセス属の分類の困難性を主張する。しかしながら、この分類法によつても、ストレプトマイセス属は四十七種に明白に分類される。この分類法においては、ワクスマンの分類と異り、まず形態学的な事項によつて放線菌を大別し、次いで、色素、生棲場所等によつて逐次分類しているので、胞子柄の分枝、胞子の形(球、卵形の場合と円筒形の場合)は第一及び第二の分類の鍵として重要視されている。したがつて、この分類法によつてS・サヤマエンシスを分類すれば、S・オーレオフアシエンスとはワクスマンの方法による場合より更に甚しく離れた位置に所属させられるのである。

クラシルニコフの分類系統は、別紙附属表の三放線菌分類表第四表のとおりであるが、これによつても、放線菌が、限界の明示された範囲に、整然と区分されていることは明白である。

(七) 代謝物生産能力と放線菌の分類

債権者は、菌のもつ代謝物生成能力を考慮しない分類学説を援用すべきでないと主張する。しかしながら、前記のワクスマン・ヘンリシーの分類法によつても、又クラシルニコフの分類法によつても、代謝物生産能力は何ら種の分類の鍵とされていない。代謝物生産能力を種の分類の鍵に採用しようとするのが債権者の意図であるとすれば、これは、まさしく、債権者独自の新説であつて、到底採用に値するものではない。

しかも、同一代謝産物を生産するにもかかわらず、異種として公認された例は非常に多く、その例としては、オキシテトラサイクリン(テラマイシン)を生産するS・リモースス、S・グリセオラブス、S・プラテンシス及びS・アルミラトス(注)

クロラムフエニコール(クロロマイセチン)を生産するS・ヴエネズエラとS・オーミヤエンシス

アクチノマイシンを生産するS・フラベオルスとS・パルブス

ハイドロオキシストレプトマイシンを生産するS・グリゼオカルネウスとS・レチクリー

チオルチンを生産するS・アルブスとS・セルロクラブス

アクチサイアジツクアシツドを生産するS・ビルギニアエとS・ラベンヂユラエ

ストレプトマイシンを生産するS・グリセウスとS・ビキニエンシス

ペニシリンを生産するペニシリウム・ノタツムとペニシリウム・クリソゲナム

等を挙げることができる。

仮に、現在、代謝産物を考慮しようとする分類法が提唱されていることを認めるとしても、その場合にも、代謝産物たる抗菌性物質の重要性は、色素の生産等と同程度の重要性しかもたない。

(注) 雑誌「ケミカル・アブストラクト」一九五五年三月二十五日発行号四二四二欄F段(乙第四十一号証の一及び二)において、放線菌の新種S・プラテンシスがオキシテトラサイクリンを生産することが報告され、パスツール研究所報(一九五四年十一月)五八〇頁-五八四頁(乙第四十二号証の一及び二)において、同じオキシテトラサイクリンを生産する新菌種S・アルミラトスが報告された。(この二新種の意義については、次段に述べる。)

(八) 最近における放線菌の新菌種

昭和二十七年八月以降昭和三十年五月まで、本邦特許公報に公告された特許発明のうち、放線菌の新菌種に関するものが全部で十四存在する。これら新菌種の発見者(判定者)は、次のとおりである。

新菌種発見者    発見新菌種数

梅沢浜夫氏単独又は共同 六

若木重敏氏単独又は共同 二

平反恒氏他一名     一

ワクスマン氏      一

緒方浩一氏他二名    一

ダガー氏他三名     一

細谷省吾氏他五名    一

黒屋政彦氏       一

新菌種であるとの判定は、既知の菌種のうちから近似菌種を検索し、その特性と比較して相違点を明らかにし、その相違を根拠として近似菌種とは別種とするのが通例である。ワクスマン発見のS・グリセウス及び本件特許であるダガーのS・オーレオフアシエンスのみが、近似菌種との比較を記載していないただ二つの例外である。近似菌種の検索にあたつて、バージーの分類書によつたと明記しているものが五件あり、他は明記していないけれども、バージーの分類法、すなわち、ワクスマンの分類法によつたものと容易に推定される。近似菌種の性質はバージーの分類書等に特性として与えられている記載に基いており、近似菌種を現実に培養しているものは全く存在しない。又、近似菌種の変異種の性質がどう変るかについての検討を行つているものも全く存在しない。

新菌種とされたものと近似菌種との相違は、別紙附属表の四のとおりであり、四あるいは五の相違点を明記しているものが一、二あるけれども、通常は二、三の顕著な相違があれば、十分新種と認めるに足りるとされている。この場合、比較の対象となつているバージーの分類書等に特性として与えられている近似菌種の性質が変るというような場合は、全く予想されていないのである。

オキシテトラサイクリン生産菌としては、従来S・リモースス及びS・グリセオフラブスが知られていたが、ここに更に、S・プラテンシス及びS・アルミラトスが加わつた。

しかして、オキシテトラサイクリンとクロルテトラサイクリンとはOH基とC1の有無の相違だけで、構造式において極めて近似する物質である。したがつて、クロルテトラサイクリンのみがS・オーレオフアシエンス以外の種からは生産されないという推定は、極めて困難であるといわなければならない。

七、S・オーレオフアシエンスとS・サヤマエンシスとの比較

(一) 一般的特性による比較

S・オーレオフアシエンスとS・サヤマエンシスの特性について、前記附属表の二特性比較表第一表にもとずいてこれを前述のような分類異同決定のための観点から、その重要なものを摘記すれば別紙附属表の二特性比較表第二表のとおりである。すなわち、両者は菌糸の状態及びその生育初期の色、可溶性色素の有無、胞子の形等の他、コーン・スチープ・リカー寒天、ウシンスキー氏、アスパラギン寒天、蒸煮馬鈴薯、リトマス牛乳等の培地における培養所見、炭素供給物質、最適発育温度、完全死滅温度等の諸点において、顕著に異り、又前記の生産培地上の所見及び効果についても、はなはだしく相違する。この工業的実施における相違は、両菌の菌学的性質の相違、すなわち、リトマス牛乳中の培養所見による相違に相応するものである。(これに対し、債権者は、佐藤喜吉の証明書(甲第十四号証)あるいは本件特許明細書記載の実施35例を引用して、醗酵液がアルカリ性となる場合のあることを述べているが、これはいずれも、培地に炭酸カルシウムを加えて培地を変化させているか、又は生産培地でなく、菌学的試験培地中の所見であるために、このような結果を生じたものであり、培地の組成あるいは、その目的をも同時に異にした場合について、単にPHの同一又は類似をもつて論ずるのは問題を混迷に導くのみである。)

牛乳培地の所見は、放線菌の分類同定上極めて価値あるものであつて、この所見の差異を重要視して異種とされている例も存するのである(たとえば、前述のワクスマン・ヘンリシーの分類法におけるS・リモーススとS・グリセオフラブス)・債権者はワクスマン(一九五三年)二六頁(甲第三十一号証)のS・フラブス群のキイの部分に「ストロングリー・プロテオリテイツク(蛋白分解力強力)」というキイ・キヤラクターがあることをもつて、牛乳培地上の所見が種の異同を決する基準にならないと主張する。しかし、そもそも、キイ・キヤラクターなるものは、種の「記載」中から分類のキイとなるものを摘記するものであるから、キイ・キヤラクターとしてあげられている性質で「記載」中にないという性質は存しえない筈である。そしてこのS・オーレオフアシエンスの牛乳培地上でストロングリー・プロテオリテイツクなる性質は、ワクスマン(一九五三年)四九頁(甲第十二号証の四)のS・オーレオフアシエンスの「記載」中に存しないし、又ワクスマンの坂口博士あて書簡(甲第十六号証)中の「記載」にも全然見当らない。この意味において、このストロングリ・プロテオリテイツクなる記述は、その根拠において疑わしいものである。しかも、このストロングリー・プロテオリテイツクなる性質が正しいとすれば、本件特許明細書中の牛乳培地上にペプトン化が起らないとし、又ゼラチンを液化しないとする記載は誤りであるということになりこれらの双方を正しいとすることはできないのである。

更に、債権者は、ジヤーナル・オブ・バクテリオロジー(甲第二十七号証)のS・ラベンジユレーに関する報告を援用し、前記の双方が正しいとの裏付けとしようとしているが、右報告は債権者主張のような趣旨ではない。すなわち、原文を精査すれば、明らかなように、第三五三四号(この株がS・ヴエネズエラであることは明記されている。)、第三五二六号、第三五二六a号、第三五三〇号、第三五三一号等の各株がS・ラベンジユレー・グループに属するとしてまとめ、この結果を報告したもので、S・ラベンジユレー種に属する菌株についてのみの報告ではない。故に、右報告は、S・ラベンジユレー種が債権者主張のように広範囲に変異することを示しているのではない。(債権者は山崎博士の鑑定書-乙第二十一号証-について、同博士がS・ラベンジユレーに関する報告を読んでいたならば云々と述べているが、右報告が前記のようなものである以上、山崎博士がこれを読んでいたかどうかは、その判断にいささかも関連するものでない。)

(二) ワクスマンの認めた特性による比較

ワクスマン(一九五三年)四九頁(乙第一号証)においてワクスマン博士は、S・オーレオフアシエンスの特性を挙げているが、これをS・サヤマエンシスの特性と比較すると、別紙附属表の二特性比較表第三表のとおりである。右ワクスマンの記載は、第三者的立場にある学者として、S・オーレオフアシエンスを他の種と区別すべき最も重要な特性として認め、選択し、成書に記載された唯一のものである(ワクスマン博士は、坂口博士あての書簡――甲第十六号証――により、この記載の改訂を示唆している模様であるが、後に述べるような理由から、又この記載が、現在においては、第三者によるS・オーレオフアシエンスの特性を記した唯一の成書であることから、全く無視されてよい程無価値なものではない。)債権者は、この記載中肉汁寒天培地上の黄金色可溶性色素生産の点がこの記載において引用されている一九四八年のサイエンス誌に示されていないことをもつて、この記載全体が無価値であるかのように述べているが、本書においては、更に一〇頁から一二頁(乙第十一号証の五)及び二六頁(乙第十一号証の六)にも同様の記載があり、しかも、それらすべてが黄金色可溶性色素を生産することを重要な特性としているのであつて、この特性は、ワクスマン博士によりダガー博士の記載が了解され、抜きがきされたものであることは明らかであるから、債権者の主張は当らない。又債権者は、同書三八頁の記述を引用して、ワクスマン博士が前述の五項目で菌種の同定ができるものではないことを明らかにしていると主張するが、右の記述は「同学の士の参考のため多くの文献の大要を述べるに止めたものであつて、特別に詳しく研究するには不十分であるから、詳細の事項は近刊予定のバージーの分類書第七版を参照されたい」という意味であり。引用文献も主要なもの以外ほとんど挙げていないとことわつているのであつて、問題の黄金色可溶性色素等の出所もあげていない。したがつて、本書には不正確なことを載せたとことわつているのではなく、S・オーレオフアシエンスに関してもその大要が記されているわけである。なお、大要とは、分類の最も大切な事項の意味であり、これを具備すれば分類における主要の鍵は十分であるから、その他の些細な性質をあげないとしているのである。更に債権者は、黒屋博士が記載されなかつた馬鈴薯上の差異は重要でないと述べているが、通常の鑑別培地に加えられる馬鈴薯上の所見の重要さは黒尾博士も認めていることは、同博士の書簡(乙第三十号証)第六項により明らかである。

右の表によれば、S・オーレオフアシエンスとS・サヤマエンシスとは、肉汁寒天培地上の所見について顕著に異ることがわかる。なお、右のワクスマンの記載及び本件特許明細書の記載を綜合して、両菌の重要な性質の相違を摘記すれば、別紙附属表の二特性比較表第五表のとおりである。

(三) ワクスマン博士私書簡記載の特性による比較

ワクスマン博士の坂口博士あて私書簡(甲第十六号証)において、ワクスマン博士は、前記の一九五三年の著書におけるS・オーレオフアシエンスの記載は、その後の研究に照らし、不完全、かつ、不正確であるので、バージーの分類書第七版には、その記載が後記のように変更される、旨を述べていると、債権者は指摘する。(しかし、債務者は現在のところこの書簡の成立は知らないし、又成書としていまだ発表されていないので、これを全面的に措信することはできない。)

そして、この変更によつて、債権者は、生育及び気菌糸の色調、スパイラルの有無等がいわゆる変種の間で大幅の変化があり、可溶性色紙は認め難いこと等前述第三表において債務者が差異ありとしている点について、S・オーレオフアシエンスの特性を漠然とさせ、比較不能としようとしているかのようである。しかし、気菌糸についてスパイラルなしと述べ、「注」として、ゆるやかなスパイラルがまれに生ずるとしており、又この記述に関して、一九四八年のサイエンス誌(乙第二十三号証)を示しているにもかかわらず、右のサイエンス誌にはゆるやかでない顕著なスパイラルがA-三七七株として示されている。(胞子分離の際のS・オーレオフアシエンス-A-三七七-の気菌糸として顕著なスパイラルを示す写真が掲げられている。)この矛盾についても合理的な説明がされるのでなければ、この改訂されるという記載を、そのまま信用することはできない。

又、この訂正は、本件特許明細書記載のS・オーレオフアシエンスの特性を訂正し得るものではないが、仮にこれを採用した場合、これとS・サヤマエンシスとを比較すれば、別紙附属表の二特性比較表第四表のとおりである。以上のように、いわゆる変種の性質として附加して従来の種の特性を漠然たらしめたため比較不能となつた生育、気菌糸の色、スパイラルの有無、可溶性色素等の諸点を除外しても、なお、かつ、種々の点、ことに、菌糸生育の初期の色、胞子の形、馬鈴薯及び牛乳培地等において顕著な相違を有するのである。

本表について債権者は、牛乳培地上のペプトン化に関する証人向秀夫の証言のうち、ベネデイクト株が「牛乳培地を多少ペプトン化するようですが」との点をとらえて、S・オーレオフアシエンスがペプトン化する場合ありと主張するが、向氏はベネデイクト株の培養において、絶対にペプトン化を認めなかつたことは、同氏の書簡(乙第四十号証)及び鑑定書(乙第二十七号証)の記載に照らして明らかである。

八  債権者の主張の誤りについて

そもそも、債権者の冒している最大の誤りの一つは、本件特許はS・オーレオフアシエンスという概念によつて与えられたとする点である。本件特許にいうS・オーレオフアシエンスとは、本件特許明細書記載の性質により与えられた概念であつて、最初にS・オーレオフアシエンスという名があり、その一例として明細書記載の性質が掲げられたのではない。だから、S・オーレオフアシエンスがA、B、C、Dの性質をもち、更に新しくE、F、Gの性質が発見されたとすることは妨げないが、AでなくてXであり、BでなくてYであり、CでなくてZであるとすることはできないのである。債権者は、前述のように、S・オーレオフアシエンスについては極めて漠然とした性質のみをあげ、クロルテトラサイクリンを生産するという唯一の基準をもつてこれを特性づけようとするほか、本件特許明細書記載の個々の性質についても、最近の債権者研究所員の研究結果(甲第十三号証等)を引用して矛盾する性質を附加し、それらの性質の無価値化を企図している。

債権者は、数々の変種と称するものの中から、原株と異つた性質を一つずつ抜き出して来て、これを観念的に組み合せて、これとS・サヤマエンシスとを比較しようとするが、このような組合せは全く架空のものであり、そのような性質の組合せを有する変種が現実に存在することにはならない。のみならず、現実に異つた性質の組合せを有する菌株が、ある菌種の変種であるかどうかは、結局、本来の特性との比較において定めなければならないのである。例えば、五つの性質中四つずつは標準種と同じであるが、一つずつだけは違つた性質を有する変異種を五つ組み合せれば、観念的には五つの全性質が違つた別の種をも同種ということができようが、このような比較は、分類学的には全く無意味である。

しかも一方、債権者は、債務者の菌株の性状の表示が、時に応じ変化していると非難している。しかし、債務者が主張している菌株の性状の表示は、債務者の特許明細書(乙第二号証)において記述された性質及び昭和二十八年の農芸化学会大会において債務者研究所員のした発表(乙第十三号証の一から四)以上に附加したものは全く存在しないし、この両者間に矛盾する性質の表示も存在しない。この両者を合せることにより、債務者の使用している菌すなわちS・サヤマエンシスの性質を、より明確に限定したにとどまる。又、債権者は、菌の比較項目が債務者の提示した表により異ることをとらえて、議論を混迷に導くものと非難している。しかし、菌の分類同定には、ワクスマン博士もいうように「生態学的方法、形態学的方法、培養上の特徴並びに生化学的方法を併用すべきである」以上、なるべく多くの項目によつて性状を比較すべきことは当然であり、債務者は、ワクスマンがS・オーレオフアシエンスの最も重要な特性と認めた項目から、これ等を比較のため抽出したにとどまるから、債権者の非難は全く当らない。

又、債権者は、債務者がS・オーレオフアシエンスの性状について、自己に有利なる場合は本件特許明細書以外の記載を利用していると非難するが、債務者は、前記四の(二)において述べたように、「明細書記載の性質と矛盾せず、これを更に限定するような性質の援用を拒むものではない」のであり、明細書記載の性質として白とあつたものを「黒と訂正し、あるいは、白又は黒と訂正」し得るものではないと主張するのである。債権者が債務者のいうところが矛盾しているとして挙げている四個の例について考えると、

(一) S・オーレオフアシエンスの気菌糸のスパイラルについては、サイエンス誌(一九四八年)一八〇頁-一八一頁(乙第二十三号証)にA-三七七として顕著なスパイラルを示す写真のあることが明らかであり、スパイラルがあるということは明細書記載の性質と何ら矛盾するものではない。

(二) S・オーレオフアシエンスが肉汁寒天上で黄金色可溶性色素を生産するということも、同様、ワクスマン(一九五三年)四九頁(乙第一号証)において、ワクスマンの了解した性質であつて、矛盾はない。

(三) 馬鈴薯上で黄金色可溶性色素を生産するということも、全く同様である。しかして、債務者が一九五四年版サイエンス誌(甲第十三号証の三)の記載の援用が不当であるとするのは、この記載が、それまでワクスマン博士により公認されていた性質と矛盾するからである。この記載は、従来、種の分類のキイとして採用されていたような重要な性質について、従来は白として記載してあつたものを白でも黒でもあるとするような改変を含むものであるから、これを援用することは、分類学的常識からしても妥当ではないとしたのである。債務者は、発行の年次によつて援用を認め、あるいは否認するものではない。

(四) 一九五四年版サイエンス誌(甲第十三号証)の諸学者の実験報告については、債務者は、この実験報告自体を信頼しないというものではない。ただ、これらの実験報告を援用して特許明細書記載のS・オーレオフアシエンスの性質の幅を拡張し、その結果として本件特許の権利範囲を拡張しようとする債権者の意図を不当とするのである。「債務者は一体どの記載を、あるいは誰を信頼するのであろうか」との債権者の問に対しては、「本件特許明細書こそが信頼されるものであり、明細書の記載と矛盾しない性質のみがとりあげるに値する」と答えるものである。

(五) 山崎博士、向博士の鑑定書の意義については、すでに、各関係部分において触れたが、証人有島成夫の証言に対する債権者の非難について一言するに、有島証人がベネデイクト株の変異に関する実験を行つたかどうかということは、本件の争点とは関係がない。放線菌の新種を設定する場合、新種とされるものの変異、復元の実験は必要ではあるが、他の既知の菌の変異と復元を実験することは必要ではない。もし債権者の主張するような実験が必要とすれば、本件特許明細書にも、アメリカの文献にある既知の他の放線菌と異る旨の記載があるが、全放線菌の変異種、せめてフラブス群の全変異種と比較することすら不可能であつて、このS・オーレオフアシエンスの命名こそ不可能になつたであろう。黒屋博士の意見も、S・サヤマエンシスがS・オーレオフアシエンスと異種であると断定できないとしているのであるが、同時に、同じ理由で、同種だとも断定できないという見解に立つているのである。

九  S・サヤマエンシスの性状の矛盾といわれるものについて

前述のように、S・サヤマエンシスが標準培地において示す特性は、債務者の特許出願明細書(以下本項においては「明細書」という。――乙第二号証)及び原稿(乙第十三号証の一から四)に記載されているが、債務者が本件において主張しているS・サヤマエンシスの性状は、すべて右の二つに記載されているものであり、右以外に新に附加した性状は一つもない。又右の原稿と明細書との間には、一方では簡単に、他方では詳細に記しているもの、一方では省いているものもないわけではないが、その間に何らの矛盾も存しない。そして、これを統一してまとめたものが、昭和三十年一月七日附訂正の出願明細書(乙第十七号証)であり、又、昭和三十年一月十日附権利範囲確認審判請求書添附のイ号説明書(乙第十四号証)である。債務者の提出している各比較表のS・サヤマエンシスの性状は、すべて前記の明細書と原稿に記載があり、これらの中から比較の対象となるS・オーレオフアシエンスの性状と対応するものを選び出しているだけであるから、右明細書と原稿との間に矛盾がなければ、S・サヤマエンシスの性状の主張に矛盾はないわけである。

なお、債権者は、山崎教授鑑定書(以下本項においては、「鑑定書」という。乙第二十一号証)の比較表を引用しているので、前記明細書及び原稿の記載を中心として、右鑑定書の比較表にもふれながら、各項目について説明するに、

(イ) 気菌糸

債務者の明細書には「比較的分枝少く、互生し、一般に先端は真直、……」とあり、原稿では、「比較的分枝少く、ラセン糸(スパイラル)なし、」とある。鑑定書中のこの項の記載は、原稿と同一である。

S・サヤマエンシスの気菌糸は、常にラセン糸は生せず、垂直に直立している。極めて稀に多少曲つたりすることがあつても、ラセン糸といわれるような渦状の形をとることは絶対にない。これが、「先端は一般に真直であるがラセン糸なし」という意味である。鑑定書添附の写真は、S・サヤマエンシスの気菌糸が一般に先端は真直であり、常にラセン糸はないことを示している。(これに対し、S・オーレオフアシエンスA-三七七株の気菌糸は、明白なスパイラルを示している。鑑定書添附のS・オーレオフアシエンスの写真は一九四八年版サイエンス誌一八〇頁と一八一頁との間の写真-乙第二十三号証の一-を転写したものである。)

したがつて、債務者は、S・サヤマエンシスの気菌糸の先端が真直であるかどうかについては、必ず「一般に真直」と述べているし、又同時にラセン糸(スパイラル)の有無については、必ず、単に「ラセン糸なし」とのみ表現している。

(ロ) 胞子

債務者の明細書では「球状に近いが、やや角張つている。大体の大きさは一ないし一・五ミクロン。」と述べ、原稿では「プフアイフアー染色すると僅かに角のとれた立方体で一・〇×一・五ミクロン、無染色(そのまま)では短桿ないし短円筒状である。」と述べている。又、鑑定書では「染色しないものは短桿状から短円筒状、プフアイフアー染色では微かに角のとれた角柱状から立方体型。大きさ一ないし一・五ミクロン」と表現している。

原稿と鑑定書の記載は、いうまでもなく同一である。又、原稿及び鑑定書の記載からおのずから明らかなように、明細書では、染色した場合の胞子の形状を記載している。染色には火焔固定するため、その処理によつて胞子の形状が変形するから、形状比較するには、無染色の形状を比較するのが妥当である。したがつて、本件において債務者は、胞子の形を比較する際は、常に無染色の形状を記載している。(第一表においては、染色した場合をも参考的にしるしている。)

(ハ) ゼラチン穿刺培養

明細書では「摂氏二十度のゼラチン穿刺では、表面に黄色菌体を生じ、穿刺線に沿つて絨毛状に生育する」と述べ、原稿では、その第四表(乙第十三号証の四)において、「二六度C、一五日間に液化せず」としるし、第三表(乙第十三号証の三)において、「表面に黄色薄片状生育、可溶性色素なし。」としるしている。

鑑定書は、「二六度一五日で液化せず、生育は黄色薄片状、可溶性色素なし」としるしている。この記載が原稿の記載を統一したものであることはいうまでもない。明細書は穿刺線における生育状態を主とした記載で、培養温度二十度となつており、鑑定書「生育は黄色薄片状」は、ゼラチン高層上面における菌体の生育状態を示し、培養温度二十六度となつている。

(ニ) ブイヨン寒天(肉汁寒天)

明細書では、「菌体は無色から黄色に変り、細いしわに富む生育をし、可溶性色素は生産しない」と述べ、原稿では「良く生え鈍い淡橙黄色、気菌糸及び胞子の形成妨げられる」と述べ鑑定書では、「生育良好、鈍い淡橙黄色、気菌糸及び分生胞子の形成妨げられる。可溶性色素なし」と述べている。

明細書では、菌体の色について、生育の初めから時期的変化につれ黄色糸に変ることを記し、原稿及び鑑定書では、その一時期をとらえている。その他は、鑑定書が生育の形状(細いしわに富む。)を記載しないだけで、明細書と原稿とを統一したものであることは明らかである。

(ホ) リトマス牛乳

明細書では「三七度Cで接種の翌日淡黄色環状に生え、四日目位から培地は青味を増し、一週間位で凝固し十日目位で表面から液化始まる。一か月目のPH七・八」と述べ、原稿では「黄調灰色カラー(襟)状に生育、四-五日で凝固し、ペプトン化し、反応はアルカリ性」と述べ、鑑定書では「黄調灰色の襟状生育、四-五日以内に凝固し、十日目にペプトン化し、アルカリ反応を呈し、十五日後のPH七・八(対照はPH六)と述べている。

凝固、ペプトン化の時期は接種量により調節されるので、日数のくいちがいは、とるに足らぬ微差である。「淡黄色の環状の生育」と黄調灰色の襟状の生育」とは表現の相違であつて、事実に変りはない。

(ヘ) 馬鈴薯

明細書では、「接種二日目菌体薄黄色、一週間位でやや褐色ないし橙色調を帯ぶ。集落は全緑に近く、隆起し、凸凹のしわが緻密である。馬鈴薯自体は黒褐色となる。二週間以上経つと全表面に白色気菌糸を生じ、更に古くなると白斑ある灰青緑色となる」と述べ、原稿では、「極めて良く生え、紫調桃灰色、淡赤褐色の可溶性色素産出、皺層状古くなると馬鈴薯は暗色化する。」と述べている。又、鑑定書では「生育はなはだ良好、紫色調桃灰色で淡赤褐色の可溶性色素を生ず、皺層状、長時間後馬鈴薯は暗色化する」と述べている。

訳文に些少の相違があるが、原文によつて明らかなように、原稿と鑑定書とでは全く同一の表現である。明細書及び鑑定書は、いずれも培養経過の時間的変化を簡潔化して述べたもので、矛盾を見出しえない。すなわち、初め菌体薄黄色、一週間位でやや褐色ないし橙黄色調を帯び、紫色調桃灰色となり、淡赤褐色(向博士はその菌鑑定書――乙第二十五号証――で小豆色と表現されたが、ある培養時期では、この表現が真に近い。)の可溶性色素を生じ、長時間の培養で馬鈴薯が暗色化することを示す。暗色化の色調が黒褐色になるのであつて、暗色化することに誤りはない。

淡赤褐色の可溶性色素の生産と、馬鈴薯自体が黒い褐色となることは別個の現象であつて(債権者はこの間が矛盾するという。)、可溶性色素は集落の周囲の培地中に極めて徐々に溶け拡がつてゆくものであり、淡赤褐色可溶性色素がこれであるが、それとは別の原因により(S・サヤマエンシスが殺菌蒸煮馬鈴薯中に含まれるフエノール系化合物を酸化するフエノールオキシダーゼ系の酵素を分泌して、暗色系の化合物を形成するためと推定される。)、馬鈴薯の広範囲にわたり、同じ程度の速さで徐々に黒ずんでくる。時日が経過し、黒ずむ程度が進むと黒褐色になる。集落の周囲及び下部の培地は二種の着色が重なることと、可溶性色素の拡散が緩漫なため、暗色化が他の部分より著しい。したがつて、可溶性色素と馬鈴薯培地自体の着色とは別個の現象であるから、何ら矛盾するものではない。(他の放線菌――例えばS・ルーベツセンス、S・ブレコツクス――中にも可溶性色素の生産の有無の馬鈴薯培地自体の着色とが一致しない例がある。)

(ト) 人参

明細書及び原稿ともに「湿潤、黄白色集塊状生育、著しく隆起す。」と述べ、全く一致している。鑑定書においては、「生育は少くとも三日間白色で後に鈍い赤褐色に変り隆起している」と述べているが、この「鈍い赤褐色に変り」という記載は黄白色から最後までの時間的変化を詳述したに過ぎず、何ら矛盾はない。

十  総括

以上詳述したところから明らかなように、S・オーレオフアシエンスとS・サヤマエンシスとは、放線菌分類学上当然異種の菌とみるべきものであるから、債務者の方法と本件特許の方法とが、その使用する菌の種を異にすることは明瞭である。しかして、本件特許は明細書記載の特性によつて他の菌種と区別されるS・オーレオフアシエンスに属する菌株を使用することをその発明構成上の必須要件とするものであることは、すでに述べたとおりであるから、本件特許の方法と債務者の方法とは、その一部(醗酵方法)において一致点を有するけれども、右の必須要件において差異を有する以上、両者は全く別異の自然力を利用する別個の方法であることは明らかであり、したがつて、債務者は債権者の本件特許権を侵害するものではない。

十一  仮処分の必要性について

(一) 債務者がこれまでクロルテトラサイクリン製造のため費した費用は、略々次のとおりである。

1 研究所における研究費       約 三、〇〇〇万円

2 工場生産費            約 一、〇〇〇万円

3 臨床試験費            約   五〇〇万円

4 啓蒙普及費(文献パンフレツト等) 約 二、五〇〇万円

5 広告宣伝費(新聞雑誌等)     約 二、五〇〇万円

6 生産用新設設備費         約 五、〇〇〇万円

7 生産用併用設備費         約一〇、〇〇〇万円

8 生産用原材料手持         約 一、五〇〇万円

9 製品、半製品、仕掛品手持     約 四、〇〇〇万円

(二) 又、債務者のクロルテトラサイクリンの生産量は、最近約半年については、次のようである。

昭和二十九年七月 一五七、三七六グラム(力価)

八月 二六二、三一三グラム

九月 一八九、九三六グラム

十月 二一八、一七六グラム

十一月 二二一、二三〇グラム

計 一、〇四九、〇三一グラム

右の数量は、国家検定合格の数量、すなわち、市販を許可された数量である。しかして、このうち、現実に販売された数量及び金額は、次のとおりである。

七月  一八五、六〇〇グラム  四二、四二〇、五八〇円

八月  一九六、四七〇グラム  四六、七五三、三五〇円

九月  二〇六、五二〇グラム  四三、九六六、〇三〇円

十月  一九二、五七一グラム  四〇、九〇三、〇九五円

十一月 一九七、六五四グラム  四一、二七九、七四〇円

計   九七八、八一五グラム 二一五、三二二、七九五円

しかして、債務者の利潤が、債権者主張のとおり、一グラム約五十円であることは争わない。

(三) 右の情況であるから、もし本件仮処分が許されるならば、債務者の前記の投下資本の全部は無に帰し、当然あげうべき利潤を失うのみならず、債務者の信用の失墜は測り難いものがある。又、製造販売が禁止されるならば、引き続き供給することが不可能になるから、販売代金の回収の困難又は不能を来すことは見易いところであり、その損害は約一億円以上に及ぶとみられる。更に事業停止に伴う従業員整理の費用も又少からざるものである。しかして、債務者は本邦におけるクロルテトラサイクリンの需要のなかば以上を供給しているから、もし本件仮処分申請が許されるならば、国民の保健衛生上にゆゆしい問題を生ずる。

これに反し、仮処分が許されなかつたとしても、その場合債権者が蒙る損害は債務者のそれに比し僅少であり、利害の権衡からしても、本件仮処分の必要性を否定せざるを得ない。

よつて、債権者の本件仮処分申請は却下されるべきである。

十二  予備的主張

本件仮処分申請が認容されるときは、債務者は前述のとおり、異常に甚大な損害を蒙る。このような場合には、一定の金額を供託することを条件として、仮処分の執行を停止又は取り消すべき特別の事情があるものであるから、民事訴訟法第七百四十三条、第七百五十四条の規定を準用し、仮処分命令自体において、右仮処分命令の執行の停止又はその取消をうるため債務者より供託すべき金額を記載し、その執行の停止又は取消を命ずるのが相当である。

疏明

〈省略〉

理由

第一被保全請求権の存否について

(本件における主要な争点)

本件における被保全請求権の存否、換言すれば、債務者による債権者の特許権侵害の事実の有無の判断は、結局、S・サヤマエンシスとS・オーレオフアシエンスとが異種の菌であるかどうかの判断に帰着する。すなわち、債権者が、この点に関し、本件仮処分申請の理由として主張するところは、これを要約するに、

債権者は、S・オーレオフアシエンスに属する菌株を水性培養基に接種し、好気性醗酵を行わせて、新規な抗菌性物質クロルテトラサイクリンを製造する方法の特許権者であるところ、債務者も、クロルテトラサイクリンをある種の方法で製造しているが、右クロルテトラサイクリンは新規な物質であるから、特許法上、これを製造する方法は、債権者の特許にかかる方法と同一であると推定される。したがつて、債務者の採用している製造方法が債権者のそれと同一でないという反対の証拠がない限り、債務者は債権者の製造方法に関する特許権を侵害するものと認められる。

というに帰するところ、

債権者がその主張のような特許の権利者であること、債務者がストレプトマイセスに属する菌(債務者は、これをS・サヤマエンシスと呼称する。)を、債権者と同じように、水性培養基に接種し、好気性醗酵を行わせることにより、新規な物質である抗菌性物質クロルテトラサイクリンを製造していることは、債務者の認めて争わないところである。

(特許法第三十五条第二項の規定による推定)

しかして、抗菌性物質クロルテトラサイクリンが新規な物質であることは、債務者の認めて争わないところであるから、特許法第三十五条第二項の規定により、債務者の製造する右物質は、債権者のそれと同一の方法により製造されるものと推定されるといわざるを得ない。もつとも、債務者は、この点に関し、「本件特許の方法は、クロルテトラサイクリン製造の第一段階であるクロルテトラサイクリン含有の醗酵液生成方法にかかるものであり、醗酵液の状態においては、債務者のそれと本件特許の方法とは著しく異る」と主張するが(債務者の主張の項五)本件特許の方法と債務者の方法とにより生成されるクロルテトラサイクリン含有の醗酵液の組成又は状態が異つていても、これが、ひとしくクロルテトラサイクリンと特定し得べき物質を含有するものである限り、この二つの方法ともいずれもクロルテトラサイクリンの製造方法たるを失わないことは、いうまでもないところであるから、両者によつて生成される醗酵液の組成又は状態、したがつて、また、これからクロルテトラサイクリンを抽出精製する方法が異つているとしても(そして、この方法について、更に、特許を得る余地があるとしても)、これをもつて右法条の適用を排除することはできないと考える。

かくして、本件被保全請求権の存否に関する結論は、債務者が、債権者の反ばくに耐えつつ、その提出援用する疏明資料により、一応、前記法条による推定を覆しうるかどうかにかかることになる。

しかも、前に掲げたように、債務者は、そのいうところのS・サヤマエンシスなる菌の培養及び醗酵方法については、債権者のそれと異るところのないことを認めているのであるから、問題の焦点は、いわゆるS・サヤマエンシスなる菌が、はたして、「S・オーレオフアシエンスに属する菌株」と認め得るかどうかに限局される。

よつて、便宜、以下の各項に分つて、当裁判所の見解と判断を明らかにする。

一  いわゆる「S・オーレオフアシエンスに属する菌株」について、

(このことばの意味するもの)

S・オーレオフアシエンスとは、細菌分類学上の定義に従えば、放線菌「ストレプトマイセス属」のうちの「オーレオフアシエンス種」を意味し、細菌分類学上、「属」を細分したものが「種」であり、「種」は更に多くの「変種」を含むものであること、したがつて、いわゆる「S・オーレオフアシエンスに属する菌株」とは、細菌分類学上の意義においては「S・オーレオフアシエンス種」及びその「変種」を包括するものであることは、本件口頭弁論の全趣旨に徴し、明らかなところである。

(S・オーレオフアシエンスとは明細書記載の性状をもつものだけに限定されるか)

債務者は、

本件特許にいう「S・オーレオフアシエンス」とは何かということは、特許明細書に記載されたその菌の性状の記載を唯一の基準として特定すべきものである。蓋し、それが新種であるとの認定は、本件特許明細書に記載されたその菌の性質を唯一の根拠とするものだからである。

と主張する(債務者の主張の項四の(二))。

しかして、成立に争いのない甲第一号証(本件特許明細書)においては「ウルトラモールドとも呼ばれる菌S・オーレオフアシエンスは、かつて、ストレプトマイセスA-三七七と名づけられ、最初は米国ミズリー州の「おおあわがえり」畠の土から分離された」菌株であるとして、別紙附属表の二特性比較表第一表のS・オーレオフアシエンスの項記載の諸性状を掲げ、「前記の特性は、S・オーレオフアシエンスを既知の他の米国の品種から区別するものと信ぜられる。」としている。

はたして、本件特許にいうS・オーレオフアシエンスは、債務者の主張するように、右特許明細書に記載された性状を有するもののみに限定されるべきものであろうか。

S・オーレオフアシエンスなる菌種は、B・M・ダガー博士等の発見命名にかかるものであり、本件発明は、一九四八年二月十一日、米国特許局に特許出願され、その権利の譲渡を受けた債権者は、万国工業所有権保護同盟条約上の優先権を主張して、一九四九年(昭和二十四年)二月七日、日本特許庁に特許を出願したものであることは、当事者間に争いのないところである。しかして、前掲甲第一号証(本件特許明細書)に徴すれば、本件特許は、いわゆる方法の発明に属するものであるところ、この発明は、同時に生産物クロルテトラサイクリン(それが新規な物質であることは、前記のとおり当事者間に争いがない。)そのものの発明でもあるが、ただ、それが医薬であるため、特許法第三条の規定により、物についての特許が許されず、その製造方法として特許されたものと認められるが、発明そのものは、新規な方法により、新規の事物を発生せしめるものであることは、いうまでもない。その方法が新規であるかどうかについての判断は、特許出願当時の技術水準を基礎としてすべきものであり、本件特許明細書は、本件特許出願当時の知見として最も代表的なS・オーレオフアシエンスの一株であるA-三七七の性状を「当時において、既知の他の米国の品種から区別する」ものとして掲げたものであり、いうところの「S・オーレオフアシエンスに属する菌株」の意義については、更に菌学上の知見によつて、その内容を補充し、客観化し得るものと解するのが相当であり、その内容の補充が科学的客観的であり得る以上、これをもつて、債務者が非難するように、その内容を不明確ならしめるとは必ずしもいい得ない。特許にかかる発明が、新規の方法により、かつ、新規の効果を発生するものであるときは、その方法として明細書に記載されたものは、効果を発生するための一手段と考えるべきであるから、この意味においては、本件特許明細書は、「S・オーレオフアシエンスに属する菌株」の例示としてA-三七七の性状を記載したものと認めるのが相当である。

いうまでもなく、特許は工業的発明に対して付与されるものであるから、明細書に用いられる用語は、元来それぞれの技術の分野における用語例に従うべきであり、特許の権利範囲の解釈にあたり、その用語の意義を一般の技術上の概念から切り離し、これを、ある限定された意義にだけ解釈することは、特別の場合のほか、妥当なものとはいえないことは、事の性質上、当然の理というべきである。もし、債務者の主張するように、本件特許明細書にA-三七七として掲げられたものだけが本件特許にいうS・オーレオフアシエンスであるとするならば、明細書における特許請求の範囲としては、S・オーレオフアシエンス又はA-三七七とのみ表示すれば足りることであり、ことさらに、「S・オーレオフアシエンスに属する菌株」という語句を用いる必要はなかつたともいい得るし、また、債務者が指摘するように、債権者が本件特許出願の審査手続中に、特許請求の範囲を「S・オーレオフアシエンス又はこれと均等な云々……」、または、「S・オーレオフアシエンス及び同効菌を……」と訂正しようとして許されなかつたことは、成立に争いのない乙第三号証の一から九に徴し、これを窺うことができるが、もしこのような訂正を許すとすれば、それは結局、クロルテトラサイクリンを生産する菌であれば何でもよいということを意味し、まさに特許の権利範囲を不特定不明確ならしめ、生産されるクロルテトラサイクリンそのものに特許を付与すると同一の結果となることも、右のような訂正が許されなかつた一因であろうと推認されるのであるから、このことをもつて、直ちに、上に説示した見解を誤つたものとする根拠とすることはできないと考える。

なお、一般に放線菌が変異しやすいことは、本件特許出願当時において明らかに知られていたことは、成立に争いのない甲第十一号証の三及び同第十二号証の三の各記載によつて推認することができ、前顕本件特許明細書においても「菌株は、必ずしも、本来の性質のままに留まるものでなく、固有の変化により、時とともに、その性質が変るものである」旨記載され、(債務者の主張するように、これを「活性の変化する」意味でしかないと解することは、前記放線菌が変異しやすいことが一般に知られていた事実と、右に続く「同様に種々の菌株が云々」の記載及び成立に争いのない乙第七号証の一、二における同趣旨の記載に照らして考えると、必ずしも妥当とはいい難い。)更に、右明細書は、AMD寒天上の所見についての変化を掲げている。もとより、これらの記載によつても、広範囲の変異を予想することは不可能であることは、成立に争いのない甲第三十四号証の一及び二のイ(証人梅沢浜夫の証言調書)並びに同第三十五号証の一、二(証人山崎何恵の証言調書)の各記載に徴して、これを窺い得るが、少くとも、発明者は、変異について意識し、明細書においても、その若干の方向を示したものと見得ることは、「S・オーレオフアシエンスに属する菌株」という表現をしたことからも、これを推認し得るところである。発明思想に属する実施例具体例を、すべて明細書に記載することは、債権者のいうように、不可能なことであり、本件口頭弁論の全趣旨により明らかなように、いわば日進月歩発達の過程にある放線菌学の分野において、科学上の概念を要部の一とする特許を付与(そのことの当否はしばらくおくも)する以上、実施例具体例として、当時明らかにされた一、二のものを掲げるにとどめることは、やむを得ないところといわなければならない。

いま、本件特許における発明について、これを見るに、右発明は、「S・オーレオフアシエンスに属する菌株」を用いて、(これを水性培養基に接種し、好気性醗酵を行わせて)クロルテトラサイクリンを生産するという技術的効果を共通にする技術構成の集合であるから、特許出願当時において知見なく、明細書にその記載がなくても、菌学上、S・オーレオフアシエンスに属すると認められるものを使用する限り、その技術的効果において共通であり、技術的単位の結合としては同一性を有するといわなければならない。すなわち、均等物の置換という観念を容れるまでもなく、本件特許における発明の範囲(すなわち、特許請求の範囲)は、特許出願後に、菌学的にS・オーレオフアシエンスに属すると客観的に認められるすべての菌株を使用することに及ぶものと解するのが相当であり、したがつて、本件特許明細書記載の性状と異り、あるいは、ある特性において、これと反する性状を有する菌株であつても、それが菌学上客観性をもつて「S・オーレオフアシエンス」と同定されるべきものである限り、これを使用してクロルテトラサイクリンを製造することは、当然本件特許の権利範囲に属し、これについて追加特許あるいは別特許を得る余地はないものというべく、これと見解を異にする債務者のこの点に関する主張は、当裁判所の採用し難いところである。

二 S・サヤマエンシスについて

(その発見から製品の販売まで)

成立に争いのない乙第二号証、同第十三号証の一から四、同第十四号証、同第十七、第十八号証、同第二十一号証、証人頭川定蔵の証言によりその成立を認め得る乙第五号証、証人藍青也の証言によりその成立を認め得る乙第十九号証及び第二十号証の一、二、証人向秀夫の証言によりその成立を認め得る乙第二十五号証及び同第二十七号証、証人細谷省吾の証言によりその成立を認め得る乙第三十七号証、証人向秀夫、有島成夫、原毅、藍青也、関沢泰治、久保秀雄及び頭川定蔵の各証言を綜合すると、債務者がS・サヤマエンシスなる菌株を発見してから製品の販売に至るまでの経過は、おおむね、次のとおりであることが、一応、認められる。

昭和二十四年十二月 土壤(昭和二十四年-一九四九年-秋、債務者研究所微生物部門の職員が東村山に遊んだ折、貯水池の堤防附近から採取したもの)から放線菌を分離。

昭和二十五年 一月 更に大腸菌噴霧法で有効な菌M-九b等十株を選択。

七月 M-九bは「オーレオマイシン」に似た抗菌性を示した。培養の結果最高七六u/ccの「オーレオマイシン」相当単位を得た。

(M-九bを、分離の順序にしたがい、三一〇号菌と仮称することにした。)

八月 三一〇号株培養濾液について、抽出法の研究を行い、収率六〇ないし七〇%の方法を知り、

九月 一応粗粉末を得た。

十月 この粗粉末と「オーレオマイシン」とをペーパークロマトグラムにより比較すると、類似するが正確には一致しない。

昭和二十六年 三月 抽出し得た八七五u/mgの黄色粉末につき、ペーパークロマトグラム抗菌斑、抗菌像及びマウスに対する毒性試験の結果「オーレオマイシン」と同等の効果を有するものと判定した。

七月 ダガー博士等の米国特許第二、四八二、〇五五号を入手し、その精製法にしたがい、追試を行つた。

九月 メルク社のストレプトマイシン精製の文献を入手し、これを参考として、三一〇号菌の醗酵過程を検討した。

十二月 梅沢博士からS・オーレオフアシエンス(N・R・R・L・二二〇九)-ベネデイクト株-一株を分与された。

昭和二十七年 二月 十分な醗酵時間で一、六八〇単位u/ccに達し、工業的価値を確認するに至つた。

梅沢博士から分与された菌と三一〇号菌の性状を比較し、異種であろうと考えるに至つた。

三月 菌株の改良と並行して、醗酵規模を増加し、五立の醗酵で二〇〇ないし九六〇u/ccを得た。

(三一〇号菌の主要な生産物である黄色の物質が「オーレオマイシン」であるかどうかが問題であつたが、この物質が国産として初めて登場する新物質であることを願い、この物質の検討に努力した。)

五月 しかるに、旋光度、生物検定値、結晶形等、全く「オーレオマイシン」と一致し、更に、赤外線吸収曲線によれば、両者は全く同一物質であることを認めざるを得なかつた。

六月 又元素分析の結果も「オーレオマイシン」と一致した。

社長の決裁により、試験生産を開始することとなつた。

七月 三一〇号菌による「クロルテトラサイクリン」製造方法につき、昭和二十七年特許願第一〇、六〇六号をもつて特許を出願した。

(三一〇号菌とS・オーレオフアシエンス-N・R・R・L・二二〇九-との培養比較、米国特許第二、四八二、〇五五号におけるS・オーレオフアシエンス・ダガーの性状の記載等の比較により、両者は異種であると確信し、たまたま、研究の結果が同一物質に到達したので、発見のオリジナリテイーはダガー博士に譲らざるを得ないとしても、製造方法が異るから別特許を得られると考えて特許を出願した。)

九月 工場の三〇〇立仕込みのタンク培養で八〇〇ないし一、〇〇〇u/ccに達し、これから五八%の収率で「クロルテトラサイクリン」を得た。

(この月から、この物質を「リモマイシン」と仮称した。)

昭和二十八年 四月 日本農芸化学会の大会において、三一〇号株にストレプトマイセス・サヤマエンシスの名称を附し、研究の一部を発表した。

五月 右発表の詳細を記述した報告文を日本農芸化学会誌に発表することとし、原稿(乙第十三号証の一から四)を作成して投稿した。しかして、十月頃掲載の予定であつたが、その後、特許出願が公告になるまで発表を見合せることとし、印刷間近になつて原稿を取り戻した。

六月 厚生省の製造許可を得た。

昭和二十九年 二月 商品名「クロルテトラサイクリン明治」と称するクロルテトラサイクリン錠剤の発売を開始した。(後に「サイクリン明治」と改称した。)

〔しかして、S・サヤマエンシスが標準培地において示す特性(注)は、債務者の特許出願明細書(乙第二号証)及び原稿(乙第十三号証一から四)に記載されており、これらを統一してまとめたものが昭和三十年一月七日附訂正の出願明細書(乙十七号証)及び同年一月十日附権利範囲確認審判請求書添附のイ号説明書(乙第十四号証)である。これらを綜合した特性は、別紙附属表の一に記載するとおりである。〕

債権者は、右乙第二号証、同第十三号証の一から四の記載その他本件におけるS・サヤマエンシスの性状の表示が変転し、矛盾すると非難するが、右乙号各証その他を検討するに、その間若干表現の差異は認められるが、本質的に矛盾するものを含むものとは断じ難いこと、ほぼ、債務者がその主張の項九において、主張するとおりである。

(注) ここにいう「特性」とは本件特許明細書(甲第一号証)において用いられる「前記の特性は、S・オーレオフアシエンスを既知の他の米国の品種から区別する……」という場合の意義において使用するものであり以下同様とする。

なお、債権者は、S・サヤマエンシスは、学界雑誌その他に全く記載なく、名称自体も否定されるものであると主張するが、本件において問題となることは、債務者がクロルテトラサイクリンを製造するために使用しているという菌(それを債務者は、S・サヤマエンシスと呼んでいる。)が、どんな特性をもつているか、したがつて、それがS・オーレオフアシエンスと異種であるかどうかということであつて、分類学上、まだ特段の意味をもつに至つていないところの、S・サヤマエンシスという名称そのものは、少くとも、本件においては「どうでもよいこと」であることは、多くの説明を要しないであろう。

三 「S・オーレオフアシエンス」について

前掲当事者間に争いのない事実に本件口頭弁論の全趣旨並びに前段において認めた諸事実を綜合すると、S・オーレオフアシエンスは、B・M・ダガー博士の発見にかかり、その菌の性状(既知の品種から区別するに足りる特性)の記載は、本件特許明細書のほか、一九四八年版アンナルス・オブ・ザ・ニユーヨーク・アカデミー・オブ・サイエンス一七九頁以下におけるダガー博士自身の記述を嚆矢とし、その後ワクスマン博士「ゼ・アクチノマイセテス」(一九五〇年版)中に採りあげられ、更にワクスマン・ルシユバリエ共著「アクチノマイセテス」とその抗菌性物質の分類及び同定に対する指針」(一九五三年)(成立に争いのない乙第一号証の一、二、乙第十一号証の一から九)において、いわゆるワクスマン、ヘンリシーの分類法に従つて分類され、その名称は、現在学界に広く認められているものであることを認めることができる。しかして、その特性を本件特許明細書の記載に従つて摘記し、これを前記の債務者の特許出願明細書記載によるS・サヤマエンシスの特性と対比すると、別紙附属表の二特性比較表第一表のとおりであるが、更に、対応する項目のうち、対応する性状を摘記すると、同第二表のとおりであり、又、右ワクスマン(一九五三年)四九頁(前顕乙第一号証の一、二)においてワクスマンが記載したS・オーレオフアシエンスの特性を前述のS・サヤマエンシスの特性中の対応するものと比較すると、同第三表のとおりである(債務者は、右三つの表に掲げられたS・オーレオフアシエンスの特性については、本件特許明細書に明らかに記載されていないものであつても、これをその特性として援用することを拒まない。)

四 「S・サヤマエンシス」と「S・オーレオフアシエンス」との比較の基準について

(一)  放線菌分類法について

成立に争いのない甲第三十四号証の一及び二のイ、同第三十五号証の一、二、乙第一号証の一、二、乙第十一号証の一から九、乙第三十八号証、甲第三十四号証の二のイによりその成立を認め得る同第二十一号証、証人細谷省吾、藍青也の各証言及び本件口頭弁論の全趣旨を綜合すると、ワクスマン及びルシユバリエ著「アクチノマイセテスとその抗菌性物質の分類及び同定に対する指針」(一九五三年)において、ワクスマン等は「過去数年間で放線菌の有効なものの選び出し、とくにストレプトマイセス属に属する多くの「種」の中から治療に有効な抗菌性物質を作るものの選択が急速に進行し、一方、又多数の放線菌の新種が追加されるに至つたので、この微生物の系統的な位置の説明や分類及びその生産する抗生物質の分類が必要となつてきたのである。この新しい微生物の記載に際し、多くの観察者は、彼等が従来の方式に従わずに、直ちに新しい名前を彼等の培養に命名したがる結果として、「バージーの分類書」の記載によつては、もはや彼等の新しく分離したものを確認することがむつかしくなつてしまつたのである。この新記載は、多くの雑誌や特許にすら発見される。それで、この「指針」は、この方面の仕事にたずさわる人々に、これらの知識を利用させることを第一の目的として作られたものである。(中略)これらは、現在編纂中の「バージーの分類書」の新版に入れられることになつている。」(同書はしがき)と述べたうえ、債務者の主張するとおりの内容のワクスマン・ヘンリシーの分類法及び抗菌性物質生産の見地から見た重要なストレプトマイセス群-種の分類を掲げ、併せて、クラシルニコフの分類系統を示し、前二者については、従来、放線菌の分類について最も一般的であつたバージーのマニユアル・オブ・バクテリオロジー第六版(一九四八年春刊行)中のストレプトマイセス属に関するワクスマン・ヘンリシーの分類法を補充し、新たに、当時までに知られた新種を包括する分類系統を明らかにしたが、同書における右ワクスマン・ヘンリシーの分類法は、現在成書として最も普遍的な放線菌分類の基準であり、広く、放線菌研究者に対する「指針」となつていること(このことは、成立に争いのない乙第三十九号証の一から十により明らかなように、昭和二十八年八月以降昭和三十年五月までに、わが国特許公報に出願公告された特許発明には、放線菌の新菌種に関するものが十四あるが、そのうち、その新種であるとの判定は、近似菌種の検索にあつて、バージーの分類書によると明記したものが五件であり、他は明記してはいないけれども、バージーの分類法、すなわち、ワクスマンの分類法によつたものであることがその記載自体によつて一応推認されることからも、これを窺うことができる。)、右ワクスマン・ヘンリシーの分類方式においても、又クラシルニコフの分類方式においても、代謝物生産能力は種の分類の鍵とされていないこと及び放線菌の分類は、決して確定不動のものではなく、過去五十年間に、しばしば、その基礎が改められてきたように、現在においても変りつつあり、ワクスマン(一九五三年)における前掲分類方式も、現在においては、普遍的で有用な方法ではあるが、もとより固定したものではなく、近時、抗菌性物質の研究が進歩した結果、代謝物生産能力についても、これを分類の中に考慮すべしとする方向に進みつつあり、前掲各分類方式においても、これが将来、正式に分類の鍵として採用されないとはいえず、現在においても、菌の比較同定にあたつては、生産物質の同一ということは、一つのメルクマールとして考慮した方がよいと考えられてきていることを、一応、認めることができ、叙上の事実を覆すに足りる十分な反対疏明はない。

債権者は、菌の分類基準として、それのもつ代謝物生成能力を考えない分類方式は採用さるべきでない旨主張するが、前掲各分類方式が代謝物生産能力について触れるところがないからといつて、それだけで、その分類方式のすべての価値を否定し去ることはできないし(ただし、右各分類方式の基礎がゆらぎつつあることは、前述のとおり)、かたがた、本件口頭弁論の全趣旨に徴すれば、オキシテトラサイクリン生産菌その他について、同一代謝物を生産するにかかわらず、異種として公認されている例のあることが推認されるのであるから、債権者の右主張には、直ちに賛成することはできない。

(二)  右各分類法による両菌の比較

前記特性比較表第二表に基ずいて両菌の特性を比較すると、債務者の主張するとおり、両者は、菌糸の状態及びその生育の初期の色、可溶性色素の有無、胞子の形等のほか、コーン・スチープ・リカー寒天、ウシンスキー氏アスパラギン寒天、蒸煮馬鈴薯、リトマス牛乳等の培地における培養所見、炭素供給物質、最適発育温度、完全死滅温度等において、相当程度に異り、右特性比較表の各項目において対応する性状の差異は、右各分類方式によつて異種として分類されたものの性状の差異に近似するものがあり、この限度においては、両者は異種であるかのようにも見えるのであるが、決定的に、これを肯定し得るものでないことは、以下に説示するとおりである。

(菌の同定と分類について)

放線菌の世界においては、唯一の尺度をもつて種を同定することができず、(1) 生態学的方法、(2) 形態学的方法、(3) 培養上の特徴、(4) 生物化学的特徴による比較を併用すべきものであることは、当事者間に争いのないところであり、前掲ワクスマン・ヘンリシーの分類方式において、たとえば、S・アルブスとS・ロンギスポルスが胞子の形の相違において、別種として分類されていても、胞子の形だけで種を同定することができない以上、ある未知の菌株がS・アルブス又はS・ロンギスポルスに類似している場合、これを、そのいずれと同定するにしても、胞子の形だけで決することはできない道理である。証人緒方浩一の証言によれば、前掲分類方式における分類のキイというものが完全に種の特徴を表わしているものではなく、漠然とした一つの方向を示すにすぎないこと(このことは、前掲ワクスマンの著書「はしがき」によつても裏付けられる。)を、一応、認めることができるが、これを上記の事実と併せ考えるときは、これらの分類方式は、未知の菌の同定について重要な作用(まず第一に、類似菌の検索のために利用されるであろうことは、多く説明を要しないところである。)をするけれども、なお、これだけに拠ることを得ず、前述の各種の方法により、多角的綜合的に判定されたうえ、この分類の中に掲げられたいかなる既知の菌種とも同定され得ない場合に、初めてこの分類方式の中においての新たな位置を見出すものといわなければならない。結局、同定は分類を前提とし、同時にまた、分類は同定の結果となるものと考えるのが相当である。したがつて、代謝物生産能力が分類の鍵とされていないからといつて、菌の同定においても、代謝物生産能力を考慮する必要がないということにはならないと考える。

しかして、S・サヤマエンシスがS・オーレオフアシエンスに属しないというためには、いかなる意味においても、S・サヤマエンシスがS・オーレオフアシエンスと同定され得ないことを明らかにしなければならないのであり(ただし、債務者の主張するとおり、S・サヤマエシシスがS・オーレオフアシエンス以外の、たとえば、S・フラボヴイレンスと同定されることは、少しも支障がない。)、しかも、その判定は、菌学上、客観性をもつてされなければならないことは、逆に、本件特許の権利範囲に属するS・オーレオフアシエンスに属する菌株を同定する場合について、冒頭に説示したと同様である。すなわち、本件においては、特許法第三十五条第二項の規定により、債務者の方法は、本件特許の方法と同一と推定される結果、このことはやむを得ないところといわなければならない。そして、その前提としてS・オーレオフアシエンスが菌学上の概念として、いかなる内容をもつものであるかが、まず探究されなければならない。

(三) 再びS・オーレオフアシエンスについて

(その一般的概念及び変異について)

そこで、再び菌学上のS・オーレオフアシエンスという概念について考えるに、前記のとおり、日進月歩発達の過程にある放線菌学の分野において、とくに、有用な抗菌性物質を生産する菌種については、その知見が著しく豊富になりつつあることは、容易に推測し得るところであるが、S・オーレオフアシエンスについても例外でないことが推認される。すなわち、

成立に争いのない甲第十一号証の三、四、同第十二号証の三、同第十三号証の一から九、第十一号証の一、証人緒方浩一の証言及び本件口頭弁論の全趣旨を綜合すると、種(SPECIES)は、多くの個々の株(STRAIN)を包含するものであるが、放線菌、ことに、ストレプトマイセス属の菌株は、個々の菌株によつて特性の差異があるうえ、自然的に変異し、又容易に人工的に変異を起すものであり、「放線菌では、一定の型又は種の存在について疑問を起させる場合がある程」、その分類同定が困難であつて、その変異は、「観察者によつては、ある株が異つた種とされる程著しい場合がしばしばある」こと(証人向秀夫、関沢泰治の証言によると、S・サヤマエンシス及びベネデイクト株が継代培養によつても変化しなかつたことを窺うことができるが、個々の株についての所見を、直ちに、これを包含する種にあてはめることはできないと考える。)、S・オーレオフアシエンスについても、バツカス、ダガー、キヤンベル等が、一九五四年十月刊行のアンナルス・オブ・ザ・ニユーヨーク・アカデミー・オブ・サイエンス誌上に、「S・オーレオフアシエンスの変異」と題する論文を発表し、ダガー博士等が最初にA-三七七株を分離してから後にされたS・オーレオフアシエンスの研究について、その自然並びに人工変異が甚だしく広範にわたる旨の実験報告をしたこと及び右報告は、アメリカの二十三州、南アメリカ、アフリカ、ヨーロツパ、アジアの数カ国で、土壤から分離したS・オーレオフアシエンスの自然変異株及びこれらの菌から得た人工変異株について、変異の詳細を記述していることを、一応、認めることができる。(この実験報告の意義については、後に説示する。)

なお、債権者が、S・オーレオフアシエンスの決定基準として、六個の性質を掲げているに対し(債権者の主張の項三の(一))、債務者は、この程度の性質の記載は、他の放線菌にも認められるので、既知の他の品種と区別される特性とはいえないと主張する。はたして、この六個の性質がS・オーレオフアシエンスの決定基準となり得るかどうかは、しばらくおくも、S・オーレオフアシエンスが新種として学界に広く認められていることは、前に掲げたとおりであり、S・オーレオフアシエンスがこの六個の性質を有することは当事者間に争いがない。しかも、この六個の性質は、S・オーレオフアシエンスが新種として公表された当時、重要な特徴(ただしこの菌がストレプトマイセス属である点を除く。)として報告されたものであることは、甲第十号証の記載により明らかである。しかして、この六個の性質のうち、クロルテトラサイクリン生産の点を除くその余の性質が、他の放線菌にも認められるとするならば、結果として、S・オーレオフアシエンスが新種として公認されたのは、その当初の発表の不完全にもかかわらず、後日の研究の結果、偶然にそうなつたのであるか、あるいは、クロルテトラサイクリン生産の点だけを根拠とするものであると考えざるを得ない。もし後者であるとすれば、ワクスマン・ヘンリシーの分類方式等において、代謝物生産能力が分類の鍵とされていないという債務者の主張はいかなる意味をもつのであろうか。本件における債務者の主張及び疏明ではこの点が必ずしも明らかでない。

(ワクスマンの書簡によるS・オーレオフアシエンスの特性について)

口頭弁論の全趣旨に徴しその成立を認めるに足る甲第十六号証によれば、ワクスマン博士は、一九五五年一月二十六日附坂口博士あて書簡において、その著書(一九五三年版)におけるS・オーレオフアシエンスの記載は、不正確であるから、近刊のバージーの分類書第七版においては、その記載が変更されるとして、その変更されるべき記載の内容を明らかにしたことが、一応、認められる。いま、この書簡によるS・オーレオフアシエンスの特性の記載を、前掲S・サヤマエンシスの特性と対比すると、別紙附属表の二特性比較表第四表のとおりである。なお、右記載によると、同博士は、一九五三年の著書において認めたS・オーレオフアシエンスの特性のうち、生育及び気菌糸の色調、スパイラル(ラセン体)の有無等については、変異株の間で大幅の変化があるとし、とくに、一九五三年の著書四九頁(乙第一号証の二)において認めた肉汁寒天培地上の所見としての「黄金色可溶性色素を伴う特徴的な生育」(別紙特性比較表第三表参照)が「可溶性色素を生じない」として、全く正反対に改められていることは、前掲甲第十六号証と成立に争のない乙第一号証の二を対比することによつて、たやすくこれを認めることができる。債務者は、ワクスマンの右書簡が公に発表されたものでなく、その内容が学界に公認されていないから、一九五三年の著書の記載は権威を失うものでないと主張するが、この主張は、右甲第十六号証の成立が否定されない以上、全く採用に値しない議論といわなければならない。蓋し、右書簡が公表されたものであると否とにかかわりなく、同博士が、みずから、さきに発表した見解を訂正したことには、全く変りはないからである。又、債務者は、右書簡において、気菌糸にスパイラル(ラセン体)なしとし、注としてゆるやかなスパイラルがまれに生ずるとして、一九四八年のサイエンス誌(乙第二十三号証の一、二)を示しているにもかかわらず、右のサイエンス誌には、ゆるやかでない顕著なスパイラルがA-三七七として示されているから右書簡の記載には信をおき難いと主張するが、成立に争いのない乙第二十三号証の一の写真を同甲第十三号証の四の各写真と対比すると、前者は必ずしも顕著なスパイラルとはいい難く、むしろ「ゆるやかなスパイラル」と表現する方が適切ではないかと認められるから、このことをもつて右書簡の記載全部を否定する根拠とはなし得ないものと考える。

(ベネデイクト株について)

成立に争いのない甲第二十号証、甲第十三号証の八、甲第三十四号証の一及び二のイ、乙第十三号証の四及び乙第二十一号証、証人向秀夫の証言によりその成立を認め得る乙第二十七号証並びに本件口頭弁論の全趣旨を綜合すると、ダガー博士は、米国における特許出願に際して、ミズリー州の「おおあわがえり」の畠の土壤から分離されたS・オーレオフアシエンス(すなわち、A-三七七)の活性培養菌をN・R・R・L・の醗酵部に寄託し、爾来それが、N・R・R・L・二二〇九号として、同所の細菌保存集に追加されたこと、その一株は昭和二十六年五月頃N・R・R・L・のベネデイクト氏から梅沢浜夫博士に分与され、債務者は同年十二月頃右梅沢博士から更にその分与を受け、これをベネデイクト株と称して培養し、S・サヤマエンシスと比較研究したことが一応、認められる。したがつて、このベネデイクト株なるものは、S・オーレオフアシエンスの標準株として本件特許明細書に記載されたA-三七七と同一のものであると認められる。

しかして、日本におけるベネデイクト株の培養実験の結果(前掲乙第十三号証の四及び同第二十七号証)を本件特許明細書(前掲甲第一号証)におけるA-三七七の記載と対比すると、その表現上の相違を考慮しても、実質的に相当の差異を示し、ベネデイクト株の性状は、S・サヤマエンシスの性状にやや接近してくることが判る(たとえば、AMD、又はウシンスキー氏アスパラギン寒天培地をほとんど着色しないこと、肉汁寒天培地において生育極めて貧弱であること等)。一方、このことは、同一の菌であつても、時と所を異にし、観察者を異にすることによつて、その性状又は、その表示に差異が現われ、あるいは、性状の差異の範囲において菌が変異すること及び記載による菌の比較が不正確たるを免れないことを示すものと考えられる。しかして、このことは、前掲甲第三十四号証の二のイにおける梅沢浜夫の証言記載において、同証人が、菌株の比較においては、同時に同一条件で培養比較しなければ正確な知見を得られない旨述べていることによつても、首肯される。

(四) 菌の同定に関する実例について

成立に争いのない甲第二十三号証、同第二十四号証の一から四及び本件口頭弁論の全趣旨によりその成立を認め得る甲第二十五号証並びに証人関沢泰治の証言を綜合すると、東風博士、ワクスマン博士等によつてS・リモーススと同定された三五六〇菌は、その特性において、むしろ、S・アルボフラブス又はS・グリセオフラブスに類似しており、S・リモーススの標準株(一九五三年版ワクスマンに記載のもの)とは相当程度の差異があるが、その差異は、質的のものではなくて、量的のものに過ぎないこと、すなわち、S・リモーススの標準株は、(イ)気菌糸にスパイラル多く、(ロ)肉汁寒天において気菌糸を生ぜず、(ハ)牛乳培地においてペプトン化もPHの変化もないのに対して、三五六〇菌は、(1) 気菌糸真直で分枝多く、彎曲もスパイラルもなく、(2) 肉汁寒天において気菌糸を多く生じ、(3) 牛乳培地を急激にペプトン化し、その他の特性においても、かなりの差異を示すが、それらの差異は質的のものではなくて量的のものであるとして、同種と同定されたこと及びこのことは、従来の分類方式に対して、全く矛盾するものであることを、一応、認めることができる。これに対して、証人関沢泰治の証言によりその成立を認め得る乙第二十九号証には、三五六〇菌がS・グリセオフラブスである旨の記載があるが、しかりとすれば、結局S・フラブスとS・グリセオフラブスとはシノニムであり、この両菌に関する限り、従来の分類方式は全く無価値になるものといわなければならない。

債務者は、S・オーレオフアシエンスとS・サヤマエンシスの比較において、とくに顕著な差異として、牛乳培地のペプトン化の有無を挙げるが、右のS・リモーススと三五六〇菌においては、このことは量的の差に過ぎないとされている(このことが、直ちにS・オーレオフアシエンスとS・サヤマエンシスとの間に妥当するかどうかは、必ずしも明らでないが)ことが知られ、また、S・オーレオフアシエンスとS・サヤマエンシスとの間の差異に近似する差異が、同種と同定されるS・リモーススと三五六〇菌との間にも存することを知り得る。更に、その記載の形式及び内容により真正に成立したものと推認し得る甲第五十一号証によると、ベネデイクト博士がS・オーレオフアシエンスと同定したAB-三七三とS・オーレオフアシエンスA-三七七との間にも同様の関係があることを認めることができる。

(五) 両菌の特性比較について

次に、別紙附属表の二特性比較表の第一表から第五表について、両菌の特性の差異を検討する。

(特性比較表に対する債権者の反ばくについて)

(イ)  胞子の形

債務者は、前顕ワクスマン・ヘンリシーの分類方式において、S・アルブスとS・ロンギスポルスが、一は胞子の形が球または楕円体形、他は円筒形であることにより別種とされているから、S・オーレオフアシエンスの「胞子球形ないし卵円形」、S・サヤマエンシスの「胞子短桿ないし短円筒状」をもつて両菌を異種とし得ると主張するに対し、債権者は、ワクスマン(一九五三年)三八頁、三九頁(成立に争いのない甲第四十二号証)のS・ロンギスポルスの項には、とくに摘要として、「胞子が絶対に球形とならぬ点でS・アルブスと区別される」とし、なお、多数の特性を掲げていること、又バージーのマニユアル・オブ・デイターミナチブ・バクテリオロジー第六版九三五頁、九三六頁及び九四〇頁、九四一頁(成立に争いのない甲第四十三号証)には、S・コエリコロール及びS・フラボヴイレンスにおいて、それぞれ、「胞子が卵形又は桿状」とされていること及び一九五四年版サイエンス誌一四四頁のテーブル三(成立に争いのない甲第十三号証の七)におけるヘツセルタイン等の研究によるS・ビリドクロモゲネスにおいて、同様のことが記述されていることをもつて、胞子の形が種を区別する基準となり得ないと反ばくし、右の反ばく事実は、右各証の記載により、それぞれ債権者の主張のとおり認めることができる。しからば、債務者の主張するS・オーレオフアシエンスとS・サヤマエンシスの胞子の形状の差異も、これのみをもつて、あるいは、これを、とくに顕著な差異として、両菌の種の異同判定の基準とすることはできないものと考えるのが相当である。

(ロ)  コーン・ステイープ・リカー寒天培地上での胞子着生の良否

S・オーレオフアシエンスの胞子は、コーン・ステイープ・リカー寒天培地上で十五日経つと非常に豊富になるが、S・サヤマエンシスにおいては十五日経つても余り豊富でないことについて、債権者は、コーン・ステイープ・リカー寒天培地上での胞子着生の良否は放線菌の菌種を区分する標準となり得ないと主張する。しかして、ワクスマン(一九五〇年)七一頁(成立に争いのない甲第十一号証の三)によれば、放線菌一般における気菌糸形成の程度及び有無は、変異によつて異ること(変異によつて胞子形成糸の生産能力が消失する場合があること)が、一九五〇年当時において、すでに、明らかにされていたことを、一応、認めることができ、また、その形式及び内容により真正に成立したものと推認し得る甲第四十四号証によつても、右の債権者の主張事実を肯認し得る。

(ハ)  馬鈴薯上の所見

債権者は、S・サヤマエンシスの馬鈴薯上の所見について「淡赤褐色可溶性色素を生産する」とあるのは、「馬鈴薯自体黒褐色となる」ことと相容れないし、「黒褐色」(乙第二号証)と「暗色化」(乙第十三号証の三)との矛盾があるから、この項目の記載は措信できない旨主張するが、証人細谷省吾の証言によれば、同証人の培養実験の結果、可溶性色素は、上の方から出、同時に馬鈴薯は下の方から真黒になつてくるものであること及び暗色化の色調が黒褐色であることが、一応、認められるから、この記載自体が矛盾を含むものであるとは必ずしもいえず、この点についての債権者の反ばくは、当らないものと考える。

(二) 牛乳培地におけるペプトン化等

債務者がS・オーレオフアシエンスとS・サヤマエンシスの性状の差異のうち、とくに顕著なものとして、前者は牛乳培地を「ペプトン化しない」のに対し、後者は「ペプトン化する」点を挙げ、これに対し、債権者は、ワクスマン(一九五三年)二六頁(成立に争いのない甲第三十一号証)のS・フラブス群のうち、S・オーレオフアシエンスのキイ・キヤラクターとして、ストロングリー・プロテオリテイツク「蛋白分解力強力」(牛乳培地のペプトン化と近縁の性状)なる記載があり、また、ジヤーナル・オブ・バクテリオロジー(一九五一年)一五四頁以下(成立に争いのない甲第二十七号証)のワクスマン等のS・ラベンジユレーの変異株についての実験報告中、S・サヤマエンシスとS・オーレオフアシエンスとの差異に匹敵する差異をもつ菌株が同一種に属せしめられていると反ばくする。前者に対して、債務者は、S・オーレオフアシエンスの牛乳培地上での「蛋白分解力強力」なる性質はワクスマン(一九五三年)四九頁(成立に争いのない甲第十二号証の四)のS・オーレオフアシエンスの記載中に存しないし、又ワクスマンの書簡(前掲甲第十六号証)の記載にもないから、その根拠が疑わしいと反論する。しかして、この「蛋白分解力強力」なるキイ・キヤラクターは、証人久保秀雄の証言によると、S・オーレオフアシエンスの「記載」ではなく、検索のための見出しであつて、「蛋白分解力強力」と「澱粉分解力強力」とを並べて一つのキイとして抽出したのみであり、ここに掲げられた三種のうち、真に、その性状において「蛋白分解力強力」なるものは、S・グリセオフラブスだけであること(このことは、成立に争いのない乙第十一号証の五におけるS・リモースス、S・グリセオフラブス及びS・オーレオフアシエンスの記載並びに成立に争いのない甲第二十五号証におけるS・リモーススの記載及び証人緒方浩一の証言のうち、ワクスマンの分類方式の説明部分によつても裏付けられる。)を、一応、認めることができ、又債務者の前記反論事実は、それぞれ、右甲第十二号証の四及び甲第十六号証により認めることができるから、結局、S・オーレオフアシエンスの牛乳培地における「蛋白分解力強力」なることについての債権者の右主張は採用できない。又、ジヤーナル・オブ・バクテリオロジーのS・ラベンジユレーに関する報告(前掲甲第二十七号証)によれば、S・ラベンジユレーが広範に変異する事実を窺うことができるけれども、その記述自体と、証人関沢泰治の証言を綜合すれば、ここに挙げられた各株が、すべてS・ラベンジユレー「種」に属するのではなく、S・ラベンジユレー・グループに属する各株(その間に当然異種の菌を含むことは、いうまでもない。)についての変異の幅を示したものであることが認められ、右報告に挙げられた各株が、S・サヤマエンシスとS・オーレオフアシエンスの差異に相当する程度の差異を示しても、それが直ちに、同一種中の各株が、それだけの差異を示すことにはならないから、これを本件に援用することは妥当でないといわなければならない。

(バツカス、ダガー、キヤンベル等の実験報告について)

ついで、債権者は、前顕一九五四年十月刊行のアンナルス・オブ・ザ・ニユーヨーク・アカデミー・オブ・サイエンス誌におけるバツカス、ダガー、キヤンベル等の「S・オーレオフアシエンスの変異」と題する論文を援用して、債務者が別紙附属表の二特性比較表の第一表から第五表において主張するS・オーレオフアシエンスとS・サヤマエンシスの性状の差異に対し、右実験報告に現われたS・オーレオフアシエンスの自然並びに人工変異株のうち、債務者が前記各表においてS・サヤマエンシスのS・オーレオフアシエンスに対する差異とする性状に相当するものがあるとして、

(イ)  菌糸の分枝及びスパイラルについて同誌一〇一頁の写真(甲第十三号証の四)及び一一七頁のS・アルブスの変異株についての表(甲第十三号証の六)

(ロ)  馬鈴薯上での可溶性色素生産及びその色彩について同誌九〇頁の記述(甲第十三号証の三)

(ハ)  AMD寒天(又はアスバラギン・グリセロール寒天)上での色彩の変化について同誌八〇頁の天然色写真(甲第十三号証の九)

(ニ)  リトマス牛乳培地の凝固及びペプトン化について同誌九〇頁の記述(甲第十三号証の三)

(ホ)  乙第二十一号証(山崎何恵鑑定書)の比較表に関し、炭素源利用について同誌一一二頁及び一四九頁の表(甲第十三号証の五及び八)

(ヘ)  乙第三十六号証、同第三十七号証(細谷省吾鑑定書)に関し、カルシユーム・マレート寒天における気菌糸の色について同誌一〇〇頁の写真(甲第四十八号証)

を挙げるのであるが、債権者の右主張事実は、成立に争いのない右甲第十三号証の三から六、八、九及び同第四十八号証により、一応、認めることができる。

これに対して、債務者は、S・オーレオフアシエンスの数々の変異株と称されるもののうちから、原株と異つた性質を一つずつ抜き出してきて、これを観念的に組み合せても、このような組合せは全く架空のものであり、そのような組合せを有する変異株が実際に存在することにはならないから、このような組合せをもつて、S・サヤマエンシスの性状と比較しても無意味であると主張し、甲第三十五号証の一、二及び証人細谷省吾の証言を援用して、右バツカス等の実験報告は無価値であると反ばくする。すなわち、証人細谷省吾の証言によれば、「右サイエンス誌におけるバツカス等の実験報告は、学界に公認されていないだけでなく、学問的に欠陥がある、何となれば、ある既知の菌種の性状と相反する性状をもつ菌株を、原株の変異株であるとするためには、その原株への復元の実験がされなければならない(S・オーレオフアシエンスの場合は、更に、その変異株とされたものがクロルテトラサイクリンを作り得ることの証明がされなければならない。)のに、これがされた形跡のないこと及び変異の幅を概括的に書き(たとえば、アラビノーズの分解について、十個の変異株のうち、いくつが分解し、いくつが分解しない、葡萄糖の分解について十個のうち、いくつが分解し、いくつが分解しないというように)、特定の一菌株についての特性を全部列挙する方式を採つていないことによつて、到底採用し得べきものでない」とし、甲第三十五号証の一、二(証人山崎何恵の証言調書)によれば、「同様に右サイエンス誌におけるバツカス等の実験報告は、学界に公認されていない、すなわち、右報告のように広範な変異を認めるならば、ワクスマン・ヘンリシーの分類方式は根本的に崩れてしまうものであり、ワクスマン等がこのような広範囲の変異を認めてその分類方式を建て直さない以上、このような変異の幅が学界に公認されたことにはならない、ワクスマンの坂口博士あて書簡(前掲甲第十六号証)において、ワクスマンは、S・オーレオフアシエンスの特性として「牛乳培地のペプトン化なし、色彩は僅かな黄褐色」としており、この記載が現在、分類上取り入れられた最も新しい記載である以上、右実験報告(同報告においては、S・オーレオフアシエンスの変異株がバクト・パープル・ミルク上において、培地を凝固し-培地の透明化は株によつて異り-色は卵白色から種々の段階の黄色や褐色、更に紅色に近いものまでに亘つている旨記述されていることは、前顕甲第十三号証の三によつて、明らかである。)は否定され、少くとも、学界に公認されていないことになる」というのである。

一方、成立に争いのない甲第三十四号証の一及び二のイ(証人梅沢浜夫の証言調書)によると、梅沢氏は、「S・オーレオフアシエンスなる種の概念は、権威ある学者がS・オーレオフアシエンスと考えているなるべく多くの菌株を集めて、その周に共通する基本的な性状及びその変動の幅を知ることによつて理解されるものである」として、前記サイエンス誌におけるバツカス等の実験報告に現われたS・オーレオフアシエンスの自然並びに人工変異株について、S・オーレオフアシエンスの基本的な性状及びその変動の幅を抽出し、S・サヤマエンシスの性状は、結局S・オーレオフアシエンスの基本的性状の変動の幅を越えるものでないとして、右バツカス等の実験報告を肯認する立場に立つている。又、成立に争いのない甲第三十四号証の一及び二のロ(証人岡見吉郎の証言調書)によると、同証人は、前記サイエンス誌におけるバツカス等の実験報告は、放線菌一般の性質からみて、とくに異とするに足りない。当初の公表の後の研究によつて種の知見が豊富になる例は、S・グリセウス、S・フラデイエ等においても見られたところであり、バツカス等の実験報告に現われた変異の幅は、彷徨変異(フラクチユエーシヨン遺伝学上の用語であり、限定された範囲内で許容されるバリヤビリテイー)の概念の中に入れて差支えないとし、証人片桐謙の証言によれば、同証人は、昭和二十八年十月当時の分類学上の常識によれば、S・オーレオフアシエンスとS・サヤマエンシスとは別種と考えられるが、現在では色々の考え方があるから、結論が異るとし、右各証人とも、前記バツカス等の実験報告を容認しているものといえる。

しかしながら、右バツカス等の実験報告の内容の信憑力(学問的価値)の問題と、右実験報告において、S・オーレオフアシエンスの変異株とされた個々の株についての一性状が、たまたまS・サヤマエンシスの個々の性状に近似するものがあるからとして、S・サヤマエンシスがS・オーレオフアシエンスの変異株であると結論することの当否とは、全く別個の問題であることは、事の性質上おのずから明らかである。

そこで、右バツカス等の実験報告の信憑力について考えるに、証人細谷省吾の証言のうち、右実験報告に現われた変異株の性状について、培養中に他からまぎれこんだものがあるかも知れないとの点は、とくにこれを裏付ける資料もなく、又、原株への復元の実験がされていないから、変異株の決定が不正確であるとの点は、前記のS・リモーススと同定された三五六〇菌についても、三五六〇菌をS・リモーススあるいはS・グリセオフラブスの原株へ復元する実験がされた形跡のないことや、証人関沢泰治、有島成夫の各証言によれば、S・サヤマエンシスとベネデイクト株の培養比較においても、復元の実験はされていないことが認められることに徴して、原株への復元の実験がされていないからといつて、直ちに、その実験が不正確であると結論することはできず、前掲甲第十三号証の三によつて認め得るように、右実験報告において、とくに、A-三七七とは著しく性状の相違するA-四五六〇を得、これをS・オーレオフアシエンスに含めることが適切であるかどうかについて、相当な議論がされたが、A-三七七に紫外線照射をして分離した人工変異株A-三七七-四四〇八が、A-四五六〇に類似することをもつて、A-四五六〇がA-三七七の自然変異株であると断定した経緯に照らしても、その決定について、慎重な考慮の払われていることを窺い得られ、ほかに、この実験経過中に何らかの欠陥のあつたことを認めるに足りる資料はないから、細谷証人の見解を、そのまま採用することはできない。

又、証人関沢泰治の証言のうち、親株から出た変異株であつても、バリアント(その性質が変る原因が体質的であり、遺伝的でなく、親の性質に戻り得るもの)は、親株の種に入るが、ミユータント(突然変異により遺伝子が変化したもの)は、必ずしも親の種に属することにならないという趣旨の部分は、成立に争いのない乙第二十二号証の一から五におけるミユーテーシヨンの説明としての「バリエイシヨンが極端になつてくると、菌種Aがその子孫において菌種Bに変じてくる」旨の記載とも符合するものであるが、これらの供述及び記載は、これを、成立に争いのない甲第十八号証及びその記載の形式及び内容に徴し真正に成立したものと推認し得る甲第五十号証、とくに、右甲第十八号証中の「往々バリアント(変異)はミユータント(突然変異)でできる。もし判然と区別できて、その性状が固定していれば、変異は亜種又は変種と名づけてもよい」との記載と比照して考えると、いずれも、ミユータントの全部が、常に親株と異る別の種になるとするのではなく、ミユータントの中には極端な場合に別種となるものもあり得るという趣旨に過ぎないと解されるから、これらの証拠によれば、むしろ、ミユータントは、原則としては、その親株の種に属するといい得ると考えられる。しかしながら、上記のように、原則的には、ミユータントは一応親株の種に属するといい得るとしても、さればといつて、ある未知の菌株があるミユータントに類似しているという一事から、直ちに、それが、そのミユータントの親株と同一の種に属すると結論することは、許さるべきではなかろう。しかし、そのことが、この菌がミユータントの親株と同一の種に属すると推定すべき一つの有力な根拠になるであろうことは、容易に首肯し得るところであり、このような考え方に立脚し、更に、他の種々の資料を綜合して、この未知の菌株が、ある特定の種(そのミユータントの親株の種)に属すると判定することは、たとえ、この未知の菌株そのものの復元の実験を経ない場合でも、相当高いたしかさをもつて、できるものというべく、もち論、他日、反対の事実が証明されて、その判定が崩れることもあるであろうが、それまでは、右のたしかさをもつて満足すべきであることは、証人細谷省吾の同趣旨の供述に徴しても、これを一応肯定できるところである。

本件において、バツカス等が債権者会社の所属するものであり、右実験報告が本件仮処分申請とほとんど時を同じくしてされたものであるにしても、バツカス、ダガー、キヤンベル等が放線菌学者として斯界に重きをなしていることは、本件口頭弁論の全趣旨により窺い得られるところ、右実験報告の内容について、とくに重大な欠陥のあることを認めるに足りる疏明はなく、しかも、右実験報告の内容の受け容れ、肯認する立場に立つ学者もあり、学問上の論議のいまだ帰一していないこと前記のとおりである以上、本件における判断としては、その実験報告の内容自体を価値のないものとして否定し去ることはできないといわなければならない。

しかして、右実験報告は、証人細谷省吾の指摘するとおり、S・オーレオフアシエンスの変異株の個々の特性について、変異の幅を概括的に書き、特定の一菌株について特性を全部列挙する方式を採つていないことは、成立に争いのない甲第十三号証の一から九の記述自体によつて明らかであり、たまたまS・オーレオフアシエンスの変異株とされたものの一性状が、S・サヤマエンシスの一性状と同一であるとしても、たとえば、五つの性質中四つずつは標準株と同じであるが、一つずつだけは違つた性質を有する変異株を五つ組み合せれば、観念的には五つの全性質が違つた別の種をも同種ということができる結果となることは、債務者の主張するとおりであるといわなければならず、右実験報告にあらわれた幾多の変異株が、現実に幾世代にわたつて、その性状を変化することなく生存を続け、クロルテトラサイクリンを生産する能力を有するものであることについては、これを認めるに足りる十分な疏明資料はないのであるから、すべての特性において、S・サヤマエンシスの全特性に類似する特定の変異株(S・オーレオフアシエンスの)が報告されないかぎり、このことによつて、S・サヤマエンシスがS・オーレオフアシエンスの変異株であると積極的に断定することはできないものといわなければならない。なお、債権者の主張するように、親株から出た子株がすべて親株の種に入るべきものであるとしても、このような特定の変異株を得たことが認められない以上、右の主張は特段の意をもたないことは明白であろう。

しかしながら、前顕甲第三十四号証の一及び二のイ(証人梅沢浜夫の証言調書)によると、梅沢氏は、バツカス等の実験報告が細谷氏の指摘するとおり、その変異株とするものについてのすべての性状を列挙しているものでないことを認めながら(この実験報告のうちにS・サヤマエンシスに相当するものが存在することにはならないから、これによつてS・サヤマエンシスがS・オーレオフアシエンスに属することにはならないとしつつ)、右実験報告にあらわれたS・オーレオフアシエンスの自然並びに人工変異株について、S・オーレオフアシエンスの基本的な性状及びその変動の幅を抽出し、

(イ)  クロルテトラサイクリンを作る。

(ロ)  生育の色調は白色から黄色を基本とし、褐色及び赤色調に変動する。

(ハ)  溶解性色素を作らぬもの及び作る場合には黄色を基本とし、褐色及び赤色調まで変動する。

(ニ)  オルガニツク、メデイアで黒色色素を作らない。

(ホ)  気菌糸の色は白色から灰色、灰褐色を基本とし、黄色、赤色、緑色、青色調まで変動する(すなわち、いかなる色調をも呈する。)

として、S・サヤマエンシスの特性のうちに、S・オーレオフアシエンスに見られない、はつきりした基本的な性状が抽出できないから、結局、S・サヤマエンシスは、右のS・オーレオフアシエンスの基本的性状の変動の幅を越えるものではないとしている。なお、同氏は、糖の利用(炭素源の種類)は、種の異同判定の根拠とならないとし、この点についての意見は、後記山崎氏のそれと対蹠的である。

(六) 両菌を異種とする見解について

本件において提出援用された疏明資料のうち、両菌を明らかに異種とする見解について、その論拠を考察するに、山崎何恵氏(前顕甲第三十五号証の一、二、乙第二十一号証、口頭弁論の全趣旨に徴してその成立を認めるに足る乙第二十八号証)、久保秀雄氏(その証言及びこれにより成立を認め得る乙第三十一号証)は、それぞれ記載にもとずいて、S・オーレオフアシエンス(山崎氏はベネデイクト株の記載をも考慮し)とS・サヤマエンシスの特性を比較し、向秀夫氏(その証言及びこれにより成立を認め得る乙第二十七号証)、細谷省吾氏(その証言及びこれにより成立を認め得る乙第三十六号証、同第三十七号証)及び片桐謙氏(その証言により成立を認め得る乙第三十五号証)は、S・サヤマエンシスと、S・オーレオフアシエンスN・R・R・L・二二〇九(ベネデイクト株)とを、実際に同一条件で培養比較した所見に基ずいて、それぞれ両菌株は異種に属すると判定する。しかして、その判定の基準は、山崎氏によれば、ストレプトマイセス属に関する分類方式で、現在、オーソリテイーのあるものは、バージーのマニユアル・オブ・バクテリオロジー第六版(一九四八年刊)及びワクスマン(一九五三年)におけるワクスマン・ヘンリシーの分類方式であるという立場から、右分類法において重要視する(1) 色素の生産、(2) 牛乳培地のペプトン化及びPH変化、(3) スパイラルの有無のほか、同氏が重要と考える、(4) 胞子の形及び(5) 炭素源の種類の五項目について両菌を比較し、右の分類方式にあてはめて判定したとし、久保氏は、「植物分類学上の常識として」「多くの分類学的重要なクライテリヤにおいて著しい相違点を見出すことができるから、両菌は別種である」とし、山崎氏と同一の観点に立つものと推認される。向氏は、「分類ということになると、研究者、専門家によつて相当異見のあるところである」としつつ、細菌学的性状(形態学的、生理学的)及び寄生性に照らして、両菌は別種であるとする。(なお、向氏は、菌の分類は、将来更に細分し、精査されるであろうというが、前述のように種をまとめて群とする分類方式のあることや、S・リモーススと三五六〇菌の関係に照らして、このような考え方が菌学上、客観性をもつて妥当するとは、にわかに断じ難い。)細谷氏は、分類のメルクマールとして、とくに重要なリトマス牛乳における蛋白分解とペプトン化及びPH変化並びに馬鈴薯及びカルシユーム・マレート寒天における色素の生産について、顕著に異るから両菌は異種に属するとし、その判断の基準となる分類の方式については明らかにしていないが、その立言の全体から見て、根本的には、山崎氏、向氏と同一の立場に立つものと推認される。

しかして、以上の各氏は判定にあたつて、S・オーレオフアシエンスの変異については(本件特許明細書に記載してある変異の幅以外には)考慮していないし、また、両菌ともクロルテトラサイクリンを生産する菌であることをも考慮していないことは、前記各鑑定書、証言等の内容によつて明らかである。(とくに、細谷氏、片桐氏は、ベネデイクト株の培養所見をもつてS・オーレオフアシエンス種の性質を代表させており、本件特許明細書に記載された程度の変異の幅をも考慮していないようである。ただし、片桐氏が、その証言において、変異を考慮し、その鑑定書の結論を変更したこと及び山崎氏、細谷氏のバツカス等の実験報告に対する見解については、前に考察したとおりである。)

五、S・オーレオフアシエンスとS・サヤマエンシスとは異種といい得るか。

債務者の援用するワクスマン(一九五三年)における「抗菌性物質生産の見地から見た重要なストレプトマイセス群――種の分類において、S・オーレオフアシエンスは、S・フラブス群に属するものとされていることは、前に説示した右分類方式により明らかである。これに対して、S・フラボヴイレンス(債務者は、S・サヤマエンシスをS・フラボヴイレンスに近似する株としていることは、前記のとおり――成立に争いのない乙第二号証参照)は、右分類方式においては、いずれの群に属するとも明記されていないけれども、成立に争いのない甲第十二号証の三と前掲各分類方式の内容及び本件口頭弁論の全趣旨を綜合して考えると、S・フラボヴイレンスがS・フラブス群以外の群に属すべきものであるとは認め難い。しかして、S・オーレオフアシエンスもS・サヤマエンシスも、ひとしく、抗菌性物質クロルテトラサイクリンを生産することは当事者間に争いがないのであるから、両菌はストレプトマイセス属としては、甚だ近似しているものといわなければならない。ワクスマン(一九五三年)(成立に争いのない甲第十二号証の三及び乙第十一証の一)によれば、「近時、放線菌とくにストレプトマイセス属に属する多くの種の中から治療に有効な抗菌性物質を作るものの選択が急速に進行し、一方また多数の放線菌の新種の記載が追加されるに至」り、「この新しい微生物の記載に際し多くの観察者は、彼等が従来の方式に従わずに、直ちに新しい名前を彼等の培養に命名したがる」傾向のあること及び放線菌においては「観察者によつては、ある株が異つた種とされる程著しい」変異のあることが認められるのであるから、両菌の比較は、とくに慎重にされなければならないことは改めて多言を要しないところであろう。

しかして、前記の山崎、久保、向、細谷各氏の判定において各氏とも、S・オーレオフアシエンスの変異並びにクロルテトラサイクリン生産の点を考慮していないこと前項掲記のとおりであるが、両菌が同一の抗菌性物質を生産するものであり、しかも、クロルテトラサイクリン生産菌は、この両菌のほかに知られていないことは前に説示したとおりであるから、前記の抗菌性物質生産能力が菌の分類において占める位置並びに菌の分類と同定との関係に鑑み、この論拠に立つ見解には、にわかに、左袒し得ない。

近時わが国において、梅沢浜夫氏の新種S・オーミヤエンシスによるクロラムフエニコールの採取法を始めとして、ストレプトマイセス属の新種による抗菌性物質製造法(しかも、これらの多くは新規な抗菌性物質の製造法である。)についての特許が申請され、すでに出願公告されていることは、成立に争いのない乙第十二号証、同第三十九号証の一から十によつて、認めることができるが、出願公告されたことのみをもつて、これらが菌学上の新種として客観的に公認されたものであると直ちに断定することは困難であり、他にこれを認めるに足りる明確な疏明は存しない。又、成立に争いのない乙第四十一、第四十二号証の各一、二によれば、近時、オキシテトラサイクリン生産菌について、S・プラテンシス及びS・ブルミラトスが新種として報告されたことを、一応、認めることができるが、はたして、これが新種として菌学上客観的に公認されるべきものであるかどうか、疑なしにこれを肯定すべき疏明は、他に存しない。一般に、ワクスマンが指摘するように、「直ちに新しい名前を命名したがる」傾向があり、その新種名が後日既知菌種のシノニムとして取り扱われる場合も十分あり得ると考えられるから、発表が学界において公認されるには、相当の時日を要し、発表されたことがすべて学界に受け入れられるとはいえないことは事の性質上当然である。(このことは、一九五四年のサイエンス誌におけるバツカス等の実験報告が、単に報告されたものであり、学界において公認されたものでない――甲第三十五号証の一、二及び証人細谷省吾の証言――ことについても、一応、あてはまるかも知れないが、新種発見の場合と、既知菌種の研究報告の場合とでは、おのずから差異があるであろうことは、同様に、又当然である。)したがつて、これらの事実は、それだけで本件において両菌を異種とすべき資料とすることはできないと考える。

なお、債務者は、本件においてはS・サヤマエンシスが新種であることは必要がないと主張する。まさに、そのとおりである。しかし、さればといつて、S・サヤマエンシスがS・オーレオフアシエンス以外のいかなる既知の菌種と同定されるべきものであるかは、本件における疏明では明らかにされていない。

(結論――両菌は異種といい得ない。)

しかして、前記バツカス等の実験報告(たゞし、当裁判所は右実験報告に現われたS・オーレオフアシエンスの多くの変異株のうち、一つ一つの性状を抽出して、S・サヤマエンシスの個々の性状に合致するものがあるから、結局S・サヤマエンシスがS・オーレオフアシエンスの変異株であるとする考え方を採るものではない。)、前段に説示したワクスマン(一九五三年)の「はしがき」(バージー第六版におけるワクスマン・ヘンリシーの分類方式を補充するについて、当時新しく分離され報告されたところのものをそのまま受け入れたものの如く、とくに、これを取捨選択した旨の記述はない。)、同じくワクスマン・ヘンリシーの分類方式の現在における意義及び菌の同定と分類との関係(分類方式においても、代謝物生産能力を分類の鍵として採り入れるべきものとする傾向のあること、三五六〇菌がS・リモーススと同定された経過に照らし、右分類方式の基礎がゆらぎつつあること、同定は分類の手段であり、同時に分類は同定の結果であると考えられること。)、生産物質の同一ということについての前に説示した見解(少くとも、菌の比較同定にあたつては、生物物質の同一ということは考慮されるべきであるとするもの。)、S・オーレオフアシエンス及びS・サヤマエンシンスのほか、クロルテトラサイクリンを生産する菌は知られていないこと(このことは、前顕甲第三十四号証の一及び二のイ、ロ、並びに証人細谷省吾の証言により認めることができる。)、S・オーレオフアシエンスの変異に関する最近の知見(主として一九五四年のサイエンス誌におけるバツカス等の実験報告であるが、ワクスマンの坂口博士あて書簡にも変異に関する記述がある。)、ワクスマンの坂口博士あて書簡におけるS・オーレオフアシエンスの記載の訂正(前示変異株間の変化と肉汁寒天培地における色素生産についての記述を根本的に改めたこと。)、ベネデイクト株の培養結果(本件特許明細書記載のA-三七七の性状に比べて、S・サヤマエンシスの性状に若干接近していること、債務者は、甲第二十五号証におけるS・リモーススとS・グリセオフラブスとの性状の差異の方がS・サヤマエンシスとベネデイクト株との差異よりも遙かに少いというが、はたしてそうであるかどうかは、本件の疏明関係においては必ずしも明らかではない。)、特性比較表に対する債権者の反ばく事実(たゞし、馬鈴薯上の所見に関するもの。一九五三年のワクスマンにおける「蛋白分解力強力」なるキイ・キヤラクター及びジヤーナル・オブ・バクテリオロジーにおけるワクスマン等のS・ラベンジユレーの変異株についての実験報告に関する債務者の所論の採用できないことは、すでに説示したとおりである。)及び前掲の東風博士、ワクスマン博士等により三五六〇菌がS・リモーススと同定された経緯、三五六〇菌とS・リモーススの特性比較並びにA-三七七とAB-三七三の関係(三五六〇菌とS・リモーススは、その性状が著しく相違しているにもかかわらず、同種と同定されている。とくに、牛乳培地のペプトン化については、S・サヤマエンシスとS・オーレオフアシエンスの差異に近似すること、A-三七七とAB-三七三についても同様)を綜合し、これにS・オーレオフアシエンスとS・サヤマエンシスとを別種であるとすることは困難とする前顕梅沢、岡見両氏の意見(とくに、その論拠)及び別種とも異種とも判定し得ないとするダガー博士・ゴードン博士・長西博士・黒屋博士の見解(口頭弁論の全趣旨により真正に成立したものと推認し得る甲第三号証、同第十九号証、同第三十三号証の一、乙第三十号証、同第三十四号証による。)を併せ考えるときは、両菌が異種であるとする前示山崎、久保、向、細谷各氏の意見も、S・サヤマエンシスがS・オーレオフアシエンスと客観性をもつて、絶対的に同定され得ないものであることを、肯認せしめるに足らず、又、証人有島成夫及び関沢泰治の各証言を綜合すると、坂口、佐々木、黒屋博士がいずれも両菌を異種としてよい旨の意見を述べたことを窺うことができるが、右各意見の内容自体並びにその記載の形式及び内容により真正に成立したものと認め得る甲第三十六号証の三、同第二十二号証及び成立に争いのない乙第三十四号証に照らして、これは異種として学界に報告することは差支えなかろうという趣旨を出るものでなく、それ以上に、積極的に、両菌を異種であると断定したものとは認め難く、他に、両菌が、菌学上、客観性をもつて、異種であると認めるに足りる疏明はない。したがつて本件において債務者の挙示援用する全疏明によるも「S・サヤマエンシス」が「S・オーレオフアシエンスに属する菌株」でないことを肯認し得ないといわざるを得ない。(なお、債権者の主張するように、両菌が同種に属するかどうかについては、本件においては、その必要もないことであり、あえて判断しない。)

六 特許権侵害の有無――被保全権利の存否に関する判断

債務者がS・サヤマエンシスと称する菌を使用してクロルテトラサイクリンを製造していることは、債務者の自認するところであり、S・サヤマエンシスがS・オーレオフアシエンスに属する菌株でないことを認めるに足りる疏明がないこと、さきに説示したとおりである以上、結局、債務者は債権者と同一の方法をもつてクロルテトラサイクリンを製造しているものと認めざるを得ないこと、また、すでに説示したとおりであるから、債務者に対し、特許権侵害の禁止を求める債権者の請求は、一応、理由があるというべきである。

第二仮処分の必要性の有無について

成立に争いのない甲第三十七号証の一から三、同第三十八号証の一、二、同第三十九号証の二、同第四十七号証の二から五、証人リチヤード・C・スコツト及び頭川定蔵の各証言を綜合すると、

(イ)  債権者は、日本において、日本レダリーをして本件特許を実施させているが、日本レダリーの出資は、債権者五十パーセント、武田薬品工業株式会社五十パーセントの資本構成(受権資本七千万円)であるから、その利益の半額が債権者の所得となるほか債権者は、日本レダリーから本件特許の実施料として製品販売高の十パーセントの支払を受け得るものであること。

(ロ)  同会社は、現在月額八百キログラムのクロルテトラサイクリンを生産する能力を有し、毎月約五百五十キログラムと推定される日本国内の全需要量を充足し得るものであること。

(ハ)  債権者の実施許諾を得ずして、クロルテトラサイクリンを製造するものは、債務者のほかに存しないこと。

(ニ)  債務者は近時毎月二百キログラムのクロルテトラサイクリンを製造販売し、一グラムあたりの利益は五十円であるから(このことは当事者間に争いのないところである。)、その数量だけは日本レダリーの利益の喪失を来し、その販売上の損害は月額一千万円となり、債権者はこの利益の半額五百万円を失うほか、実施料として販売金額(一グラムの販売価格二百六十円として)の一割、月額五百二十万円を失う計算となること。

(ホ)  債権者は米本国並びに全世界にわたり、一グラムにつき、F・O・B価格三百三十円をもつて販売する方針であるが、日本においては、債務者との競争により、一グラムにつき七十円の値下げを余儀なくされ、これによつて債権者の蒙る損害は、債務者の製造販売による日本レダリーの販売数量減少の分も加えて、月額二千百六十七万円に及ぶこと。

(ヘ)  本案訴訟に勝訴して債務者の製造販売を禁止し得ても、一旦値下げした価格を旧に復することは非常に困難であること。

(ト)  債務者は近時、タイ国、香港ヘクロルテトラサイクリンの輸出を開始し、その他輸出の照会が非常に多くなつていること。

(チ)  債権者は、朝鮮、台湾、フイリツピン、インドネシヤ、タイその他中東諸国及び共産主義諸国においては、本件についての特許権を有しないこと。

(リ)  債務者のクロルテトラサイクリン販売高は、その全営業部門に対する割合で三パーセント以下であり、クロルテトラサイクリンの製造販売を停止しても、これにより従業員の整理を行う必要は、まず、ないと認められること。を、一応、認めることができる。しかして、これらの事実によれば、債務者が本件仮処分によりクロルテトラサイクリンの製造販売ができなくなつても、それによつて蒙る損害は、全営業部門に属する商品販売高の三パーセント以下であり、これによつて従業員の整理を行う必要も、まず、ないに反し、債権者は債務者の本件特許権侵害により一カ月約三千万円以上の得べかりし利益を喪失することになるほか、債権者が特許権を有しない前記の諸国に債務者が輸出するときは、これを禁止すべき手段なく、又、一旦値下げした価格を旧に復することは非常に困難であることによつて、債権者の蒙るべき損害は全く算定不能であり、損害賠償を求める本訴においても、損害額の立証ははなはだしく困難であることが推認される。しかして、これらの事実と本件口頭弁論の全趣旨を綜合すると、本件仮処分の必要性については、疏明があるものと見ることができる。

第三特別事情の主張について

債務者は、本件については、債務者の蒙るべき損害が異常甚大であるから、保証を条件として、仮処分の執行の停止又は取消を命ずべき特別の事情があると主張する。

よつて、本件において、そのような特別の事情が存在するかどうかについて考えるに、そもそも債務者のいうような場合における特別の事情とは、保全されるべき権利の内容が金銭的補償を得ることにより、その終局の目的を達し得るような事情又は債務者が当該仮処分により通常蒙るであろう損害に比して異常甚大な損害を蒙る虞があり、当事者の衡平の見地から、到底許容し難いような事情を指すものと解すべきであるが、本件における被保全権利は債権者の主張する内容の特許権から生ずるものであり、右権利の内容の性質から見て、金銭的補償により、その終局の目的を達し得べきものとはいえないと考えられるばかりでなく、保全しようとする権利の侵害による損害の範囲が極めて漠然としており、本案訴訟におけるその立証が著しく困難であろうことは、前段において説示したとおりであるに対し、債務者は、本件仮処分の執行により、金銭上、信用上、その他有形無形の少なからざる損害を蒙るべきことは、その疏明に徴しこれを窺うに足るけれども、これらは、事の性質上、債務者としてある程度当然受忍すべき損害であり、債権者債務者間の衡平の見地から許容し難い程異常のものとは認め難い。

したがつて、債務者の前示主張は採用することはできない。

(結語)

以上説示したとおり、本件における主張並びに疏明関係のもとにおいては、債権者の本件仮処分申請は、理由があるものということができるから、これを容認することとし、本件における被保全権利仮処分の必要性、当事者双方の利害等本件に現われた諸般の事情を考量したうえ、本件における保全処分としては、債権者に、保証として金一億五千万円を供託せしめることを条件として、主文第一項掲記の措置を命ずるを相当と認め、訴訟費用の負担について民事訴訟法第八十九条を適用し、主文のとおり判決する。

(裁判官 三宅正雄 福森浩 田中恒朗)

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